生い立ちから辿っていった前回に引き続き、今回は初期〜いわゆる「修善寺の大患」までの夏目漱石を見ていくことにしましょう。
『草枕』で描き出される「低徊趣味」的文学観
自然主義が主流だった当時の文壇で、漱石はその有力な批判的存在となります。
その背景には、「余裕」を持って人生を傍観者的な立場から眺める漱石の態度がありました。し
このような態度を漱石は「低徊趣味」と表現しており、高浜虚子の短編小説集『鶏頭』の序文を書いた際に次のように説明しています。
文章に低徊趣味と云う一種の趣味がある。是は便宜の為め余の製造した言語であるから他人には解り様がなかろうが先ず一と口に云うと一事に即し一物に倒して、独特もしくは連想の興味を起して、左から眺眺めたり右から眺めたりして容易に去り難いと云う風な趣味を指すのである。(中略)換言すれば余裕がある人でなければ出来ない趣味である。(中略)小説も其通りである。篇中の人物の運命、ことに死ぬるか活きるかと云う運命丈に興味を置いて居ると自然と余裕はなくなってくる。従ってセッパ詰って低徊趣味は減じて来る。
『草枕』に見る漱石の芸術観
こうした漱石の文学観は、1906(明治39)年の『草枕』で漱石自身の手によって具体化されていきます。
山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
このように始まる『草枕』は、俗世間を嫌い「非人情」の世界に生きる絵描きの姿を通して、漱石自身の芸術観を垣間見ることができる作品と言えます。
初期の漱石たちが「余裕派(高踏派)」と呼ばれることになるのも、こうした「低徊趣味」的な「余裕」を持った態度によるものだったのです。
職業作家としての漱石と作風の変化
1907(明治40)年、漱石は朝日新聞社に入社。いよいよ職業作家としての夏目漱石が誕生することになります。
そしてこのころから、漱石の作風にも変化が訪れるのでした。
『虞美人草』と前期三部作
入社第一作目の『虞美人草』(明治40年)、その翌年の『三四郎』では、漱石が感じていた日本における近代の問題点に向き合う姿勢が反映されています。
なかでも、「迷える子」の青春を描く『三四郎』の背後にある個の自立やエゴイズムといったテーマは、続く『それから』(明治42年)、『門』(明治43)年へと続いていきます。
・1909(明治42)年『それから』
・1910(明治43)年『門』
三四郎には三つの世界ができた。一つは遠くにある。与次郎のいわゆる明治十五年以前の香がする。すべてが平穏である代りにすべてが寝ぼけている。(中略)第二の世界のうちには、苔のはえた煉瓦造りがある。片すみから片すみを見渡すと、向こうの人の顔がよくわからないほどに広い閲覧室がある。梯子をかけなければ、手の届きかねるまで高く積み重ねた書物がある。(中略)第三の世界はさんとして春のごとくうごいている。(中略)そうしてすべての上の冠として美しい女性がある。
(夏目漱石『三四郎』)
三四郎は遠くからこの世界をながめて、不思議に思う。自分がこの世界のどこかへはいらなければ、その世界のどこかに欠陥ができるような気がする。自分はこの世界のどこかの主人公であるべき資格を有しているらしい。それにもかかわらず、円満の発達をこいねがうべきはずのこの世界がかえってみずからを束縛して、自分が自由に出入すべき通路をふさいでいる。
(夏目漱石『三四郎』)
※高等教育を受けた人で一定の職を求めることなく生活する者。なお、漱石自身は「高等遊民」という言葉を『彼岸過迄』以外の作品では用いていない。
「働らくのも可いが、働らくなら、生活以上の働でなくつちや名誉にならない。あらゆる神聖な労力は、みんな麺麭を離れてゐる」
平岡は不思議に不愉快な眼をして、代助の顔を窺つた。さうして、
「何故」と聞聞いた。
「何故つて、生活の為めの労力は、労力の為めの労力でないもの」
「そんな論理学の命題見た様なものは分らないな。もう少し実際的の人間に通じる様な言葉で云つてくれ」
「つまり食ふ為めの職業は、誠実にや出来悪いと云ふ意味さ」(夏目漱石『それから』)
その間に安井は去り、小六は自力で援助をとりつけるなど、事態は好転しつつあったことを御米は「春になっ」たと喜ぶものの、宗助はいずれ訪れる「冬」に想いを馳せる。
御米は障子の硝子に映る麗かな日影をすかして見て、
「本当にありがたいわね。ようやくの事春になって」と云って、晴れ晴れしい眉を張った。宗助は縁に出て長く延びた爪を剪りながら、
「うん、しかしまたじき冬になるよ」と答えて、下を向いたまま鋏を動かしていた。
これら前期三部作の作品を通して漱石は自我の確立と挫折に焦点を当て、日本の近代に潜む問題を描いていったのでした。
「修善寺の大患」
1910(明治43)年、43歳の漱石は『門』の執筆中に胃潰瘍を患い、療養のため伊豆の修善寺温泉「菊屋旅館」へ赴いていました。
そして、修善寺に来てから19日目の8月24日。
漱石は大量の吐血をして昏睡状態に陥り、30分ほど生死の境を彷徨います。
後の漱石はこの時のことを「思ひ出す事など」の中で次のように振り返っています。
微かな羽音、遠きに去る物の響、逃げて行く夢の匂ひ、古い記憶の影、消える印象の名残―凡て人間の神秘を叙述すべき表現を数え尽して漸く髣髴すべき霊妙な境界を通過したとは無論考へなかつた。たゞ胸苦しくなつて枕の上の頭を右に傾け様とした次の瞬間に、赤い血を金盥の底に認めた丈である。其間に入り込んだ三十分の死は、時間から云つても、空間から云つても経験の記憶として全く余に取つて存在しなかつたと一般である。妻の説明を聞いた時余は死とは夫程果敢ないものかと思つた。
このように漱石自身が「三十分の死」と呼んだこの出来事は「修善寺の大患」として知られ、これ以降「死すべきもの」としての人間認識が漱石作品に反映されていくことになっていくのでした。
「大学受験の近現代文学史を攻略する」記事一覧
第1回 明治初期の文学
第2回 写実主義と擬古典主義①
第3回 写実主義と議古典主義②
第4回 浪漫主義から自然主義文学へ――明治30年代の文学
第5回 自然主義文学の隆盛と衰退——島崎藤村と田山花袋
第6回 夏目漱石の登場——反自然主義文学の潮流①
第7回 低徊趣味と漱石が抱く近代の問題意識——反自然主義文学の潮流②
第8回 夏目漱石が描く「生きるべき時代の喪失」——反自然主義文学の潮流③
第9回 体制側に留まる諦念の文学者森鴎外——反自然主義文学の潮流④
第10回 耽美主義文学——反自然主義文学の潮流⑤