自然主義文学の隆盛と衰退——島崎藤村と田山花袋【大学受験の近現代文学史を攻略する⑤】

明治30年代の初めから日本にも流入した自然主義文学。
当初は表面的なものに過ぎなかった自然主義文学が最盛期を迎えるまでの流れは一体どのようなものだったのか——。
国木田独歩や徳冨蘆花を中心に、浪漫主義から自然主義文学へと転回されていった明治30年代の文学を追いかけた前回に引き続き、今回は自然主義文学を見ていきます。

浪漫派詩人からの転身を遂げた島崎藤村

時はほんの少し遡り、明治26年。

この年、雑誌「文学界」の創刊に参加して浪漫主義運動を推進し、明治30年には『若菜集』を発表した島崎藤村ですが、明治34年の『落梅らくばい しゅう』を最後に彼は詩を捨てることとなります。

『若菜集』
以下の「初恋」でも有名な浪漫的叙情詩集。
七五調を基調とした五十一編を収録したこの詩集は多くの青年読者に歓迎され、浪漫詩の記念碑的存在となった。

 

まだあげめし前髪まへがみ
林檎りんごのもとに見えしとき
前にさしたる花櫛はなぐし
花ある君と思ひけり
やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅うすくれなゐの秋の
人こひめしはじめなり
わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋のさかづき
君がなさけみしかな
林檎畑のの下に
おのづからなる細道ほそみち
が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ

 

千曲川流域の物語

後に山村やまむらちょうの詩集『三人の処女』(大正2年)に寄せた序文の中で

情人を愛するごとく、私は詩を愛し、情人に別るるごとく、私は詩に別れた。

と自身が書いたように、『落梅集』を最後に詩を捨てた藤村は、明治35年以降、千曲川流域の物語を短編小説の形で次々に発表していきます。

そして、後に藤村初の短編小説集である『緑葉集』(明治40年)にまとめられる『藁草履』『水彩画家』『老孃』などの作品を通して信州を描いていくその過程で、彼は姦通をはじめとする様々な性、本能に突き動かされる世界を見ていくこととなりました。

 

たとえば、『藁草履』(明治35年)では、その醜い顔から「藁草履」という渾名を持つ主人公「源吉」が妻の「お隅」を殴り、脚の骨を折るという暴行が描かれ、さらにそのお隅はかつて強姦された過去を持つという事実も明らかにされます。

そしてその結末は、源吉がお隅を馬に乗せて医者に見せにいく途中、突然現れた牝馬に欲情した馬によってお隅は連れ去られ死んでしまうという悲劇的なもの。

本能のままに生きる人間の姿と愛欲の悲劇が、時として馬の狂乱に仮託される形で描かれているのです。

 

自然主義文学を導く『破戒』

そんな千曲川流域の物語は、被差別部落に生まれた主人公丑松うしまつ の自我の目覚めと、それに対する苦悩を描く『破戒』へとつながっていきます。

『破戒』
被差別部落に生まれた主人公の青年教師「瀬川丑松」が先輩思想家「猪子蓮太郎」の影響で自我の目覚めを経験し、「素性を隠せ」という父の教えを破って自身の生い立ちを告白するまでの苦悩と葛藤を描く。

 

被差別部落に生まれた主人公の丑松は、初めて親元を離れる際に

唯一つの方法てだて、それは身の素性すじょうを隠すより外に無い、「たとえいかなる目を見ようと、いかなる人に邂逅めぐりああおうと決してそれとは自白うちあけるな、一旦いったん憤怒悲哀いかりかなしみにこのいましめを忘れたら、その時こそ社会よのなかから捨てられたものと思え」

との戒めを父親から聞かされます。当時はなんとも思わなかったこの戒めが様々なことを見聞きし経験していくうちに、彼の心の中に葛藤を生むことになるのです。

多くの差別を目の当たりにする中で、父の教えを守って自らの出自を打ち明けてこなかった丑松も、自分と同じように被差別部落出身のであり、先生と仰ぐ思想家の猪子にだけは自らの出自を告白しようと決意します。

これまでも普通の人間で通って来た、これから将来さきとても無論普通の人間で通りたい、それが至当の道理であるから——
種々弁解いろいろいいわけを考えて見た。
しかし、こういう弁解は、いずれも後からこしらええて押付けたことで、それだから言えなかったとはどうしても思われない。残念ながら、丑松は自分で自分を欺いているように感じて来た。

現代にも繋がるこうした葛藤を描き、当時の知識人たちが抱えていた悩みを見事に表現した『破戒』は、あの夏目漱石から「明治最初の小説」と激賞されるなど、近代文学における傑作として歓迎され、藤村は自然主義文学の旗手となったのでした。

 

『破戒』に潜む問題点とその後の藤村

自然主義文学運動の端緒として当時の文壇に歓迎された『破戒』でしたが、そこに描かれているのは近代という時代の中で作者自身が感じてきた近代精神の目覚めや抑圧、挫折といった思いが仮託された世界。

つまり『破戒』という作品も本質的には自己告白の文学だったと言えます。

そして翌明治40年、後述する田山花袋の『蒲団』が発表され、評判を呼ぶとともに、自然主義は「作者の自己表白の文学」としての方向が決定づけられていきます。

島崎藤村も明治41年に発表した『春』では「文学界」に集う青年群像を描き、『家』(明治43年)で、木曽の山中で長く続いた旧家の没落を描くなど、自伝的小説を発表。

こうして、日本における自然主義文学は「自己表白の文学」の方向へと進んでいくことになりました。

 

自然主義の方向を決定づけた田山花袋『蒲団』

島崎藤村が『破戒』を発表した翌年、田山花袋は日本における自然主義文学の方向を決定づける作品といえる『蒲団』を発表します。

『蒲団』
作者自身だと思わせるように設定された主人公の中年作家が美しい女弟子に抱いた恋心を描いた作品。
当時としては大胆な官能描写とその告白的姿勢が注目を集める。

『蒲団』の特徴は作者である田山花袋自身の愛欲を告白したものとして当時の文壇には受け取られ、その姿勢が多くの共感を呼んだ作品です。
そしてこの作品により、田山花袋は島崎藤村とともに自然主義文学を代表する作家となったのでした。

 

『早稲田文学』の批評家たちによる自然主義援護

自然主義小説が当時の文壇の中で大きな力を占めるようになっていく様子を見る上で無視できない存在が島村抱月ほうげつ、長谷川天渓てんけいらをはじめとする、雑誌『早稲田文学』の批評家たちです。中でも、島村抱月の活躍が見逃せません。

イギリスやドイツの留学から帰国した彼は、『破戒』や『蒲団』を高く評価し、自身も『文芸上の自然主義』(明治41年)や『自然主義の価値』(同)などを通して、自然主義の概観を述べながら自然主義を援護していきます。

 

自然主義の最盛期と衰退

自然主義文学運動は、正宗白鳥や徳田秋声、岩野泡鳴らの新しい作家たちを加えながら、明治42・43年ごろにその最盛期を迎えます。

正宗白鳥
『何処へ』(明治41年)、『泥人形』(明治44年)などを通し、虚無的な人生観を描き出す。

 

徳田秋声
新世帯あらじょたい 』(明治41年)、『かび』(明治43年)など、流転していく人生のやるせなさを描いていく。

 

岩野泡鳴
『耽溺』(明治42年)で刹那主義的文学を実践、その後は『放浪』(明治43年)をはじめとする長編五部作を発表するなど、虚無的な人生観を披露した。

こうして最盛期を迎えた自然主義文学も、彼らの描く「現実」「真」を個人の内面に求めていったことによる虚無感、表現の過剰さなどにより、次第に衰退していくこととなります。

そして、ここからいよいよ反自然主義の文学とともに大正期を迎えていくことになるのです。


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「大学受験の近現代文学史を攻略する」記事一覧
第1回 明治初期の文学
第2回 写実主義と擬古典主義①
第3回 写実主義と議古典主義②
第4回 浪漫主義から自然主義文学へ――明治30年代の文学
第5回 自然主義文学の隆盛と衰退——島崎藤村と田山花袋
第6回 夏目漱石の登場——反自然主義文学の潮流①
第7回 低徊趣味と漱石が抱く近代の問題意識——反自然主義文学の潮流②

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