浪漫主義から自然主義文学へ――明治30年代の文学【大学受験の近現代文学史を攻略する④】

「近現代文学史ってちょくちょく出題されているけれど,出題数はそんなに多くないし,読解問題よりも配点は低いはずだし,あとで勉強すれば良いんじゃ…」
「近現代文学史は気合いで暗記すれば良い」

そんなイメージを抱かれがちな近現代文学史。
「覚えるだけ」と思ってもなかなか覚えられない近現代文学史。

苦手意識を持ちがちな近現代文学史にフォーカスしたシリーズ「大学受験の近現代文学史を攻略する」第四回。


前回は浪漫主義、硯友社、紅露の時代を見てきました。

今回は、明治30年代の文学です。

浪漫主義から自然主義へ――明治30年代の文学

前回までに見てきた内容を踏まえて明治30年代の文学界の特徴を一言で表すなら「浪漫主義から自然主義へ」の時代ととらえることができます。

ほんの少しだけ時代をさかのぼりましょう。

明治18年の2月に尾崎紅葉、山田美妙らを中心として結成された日本初の文学結社、硯友社けんゆうしゃ
大学予備門に通うエリートたちだった彼らによる文学は都会的な傾向があり、その中で見落とされ、無視されてきた自然の美が再発見された時代がこの明治30年代。

この「自然美」を評価していく傾向を推し進めていく存在が徳富とくとみ蘆花ろかくに木田きだどっの二人でした。

 

ゾラの影響を受けた小杉天外と永井荷風――前期自然主義文学

徳富蘆花と国木田独歩の話に入る前に、見逃すわけにはいかない2人の文学について簡単に触れておきたいと思います。彼らはフランス自然主義文学の中心人物であるエミール・ゾラの影響を受け、その描写を文学に取り入れようとした2人でした。

その二人とは、小杉天外てんがいと永井ふう

この時期の彼らの文学はどのようなものだったのでしょう。

『はつ姿』『はやり唄』を著した小杉天外

政治家を志したのち文学に転向、政治小説などを著してきた小杉天外は、明治31年ごろにフランスの文豪であるエミール・ゾラの『ナナ』(1879年)に触れ、その描写に感銘を受け、明治33年にはそこからヒントを得た作品、『はつ姿』を著します。

その序文の中で、

芸術の美の人を感じせしむるや、よろしく自然の現象の人の官能に触るるが如くなるべし。

と述べ、さらにはその後の明治35年に著した『はやり唄』の序文でも

自然は自然である。善でも無い、悪でも無い、美でも無い、醜でも無い、たゞ或時代の、或国の、或人が自然の一角を捉へて、勝手に善悪美醜の名を付けるのだ。小説または想界の自然である。

と述べたところに、自然主義思想の影響が強く見られると評価されています。

ただ、ゾラとは異なり、彼自身が「何を描くか」という部分に自己主張を持っていなかったこと、さらにはその方法についてもゾラの真似事に過ぎなかったことなどから、その後の日本における自然主義小説につながっていくものとは考えられていません。

そして彼自身、その後は通俗小説に活躍の舞台を移していくこととなりました。

 

『地獄の花』を著した永井荷風

小杉天外からやや遅れて、永井荷風もゾラに影響され、自然主義的な観念を取り入れた小説『地獄の花』を明治35年に発表します。

富豪の妻の不倫や教育家の酷い裏面を描いたこの作品の序文で、荷風は

余は専ら、祖先の遺伝を境遇に伴ふ暗黒なる幾多の欲情、腕力、暴行等の事実を憚りなく活写せんと欲す。

と述べ、ゾライズムを的確に理解していたことを示します。

とはいえ、この作品を通して高く評価された荷風も作品の内容自体は結局ゾラの真似事に過ぎず、彼が文壇の中で確固とした地位を築くのは『あめりか物語』を発表する明治41年以降の話です。

つまり、この時期の小杉天外と永井荷風という「前期自然主義」と呼ばれることがある二人も、結局はゾラの表面的な真似事に終わってしまい、どちらかといえば浪漫主義の側に位置づけられる結果に終わりました。

 

浪漫主義から自然主義へ――徳富蘆花と国木田独歩

冒頭でもふれたように、明治30年代は「浪漫主義から自然主義へ」と転回していく、いわば過渡期の時代だったと位置づけられます。
自然主義文学の代表格である島崎藤村や田山花袋の登場を見ていく前に、まずはこの過渡期の時代に注目してみたいと思います。

この時代を代表する二人、徳富蘆花と国木田独歩を見ていきましょう。

低俗な社会よりも優位な自然を描いた徳富蘆花

まずは徳富蘆花に注目してみたいと思います。

兄が設立した出版社「民友社」の社員でもあった徳富蘆花は、キリスト教の影響を受けた随筆小品集『自然と人生』(明治33年)の中で、絵画的な自然描写を発揮します。

この作品を通して、蘆花は「低俗で下品な社会よりも自然のほうが優位である」という価値観を見事に表現しました。

 

独歩が描く『武蔵野』の自然

政治家を志していたものの、徳富蘇峰との出会いを通して文学の世界に興味の対象を移した国木田独歩。

日清戦争の際には、民友社の『国民新聞』の記者として従軍。
弟に宛てた書簡の形式で書いたルポルタージュの「愛弟通信」が人気を博すなど、その才能を開花させていくことになります。

帰国後、佐々木信子と出会い熱烈な恋に落ちた彼は、信子の親族からの猛反対を受けながらも結婚しますが、貧困のあまり離婚。傷心の彼は渋谷村(現:東京都渋谷区)に転居し、明治30年には新体詩「独歩吟」を発表するなど、抒情詩人としてのキャリアをスタートさせることになったのです。

その後、小説に軸足を移した彼は、ロシアの小説家ツルゲーネフやイギリスの詩人ワーズワースの影響のもとに自然の美しさと、そこに溶け込んでいる素朴な人々の生活とを描くようになり、明治30年に『源叔父』、明治31年には『武蔵野』『忘れえぬ人々』を著していきました。

林に座っていて日の光のもっとも美しさを感ずるのは、春の末より夏の初めであるが、それは今ここには書くべきでない。その次は黄葉の季節である。なかば黄いろくなかば緑な林の中に歩いていると、澄みわたった大空がこずえこずえの隙間からのぞかれて日の光は風に動くずえ葉末にくだけ、その美しさいいつくされず。日光とか碓氷うすいとか、天下の名所はともかく、武蔵野のような広い平原の林がくまなく染まって、日の西に傾くとともに一面の火花を放つというも特異の美観ではあるまいか。もし高きに登りて一目にこの大観を占めることができるならこの上もないこと、よしそれができがたいにせよ、平原の景の単調なるだけに、人をしてその一部を見て全部の広い、ほとんど限りない光景を想像さするものである。その想像に動かされつつ夕照に向かって黄葉の中を歩けるだけ歩くことがどんなにおもしろかろう。林が尽きると野に出る。

(「武蔵野」)

2019年の早稲田大学スポーツ科学部の現代文で出題されたこの個所からも見て取れるように、自然の美しさに着目していた国木田独歩でしたが、その後、明治34年には思想小説として知られる短編小説『牛肉と馬鈴薯じゃがいも』を、明治35年には実社会に適応できない弱者の姿を描く『富岡先生』、『酒中日記』、明治36年には『運命論者』を発表するなど、その作風に変化が見られていきます。

そして最晩年には人生の悲惨と滑稽を描き出す作品『号外』(明治39年)、『窮死』(明治40年)、『竹の木戸』(明治41年)などの自然主義的な小説を著すようになっていくのでした。

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「大学受験の近現代文学史を攻略する」記事一覧

第1回 明治初期の文学
第2回 写実主義と擬古典主義①
第3回 写実主義と議古典主義②
第4回 浪漫主義から自然主義文学へ――明治30年代の文学
第5回 自然主義文学の隆盛と衰退——島崎藤村と田山花袋
第6回 夏目漱石の登場——反自然主義文学の潮流①
第7回 低徊趣味と漱石が抱く近代の問題意識——反自然主義文学の潮流②
第8回 夏目漱石が描く「生きるべき時代の喪失」——反自然主義文学の潮流③
第9回 体制側に留まる諦念の文学者森鴎外——反自然主義文学の潮流④
第10回 耽美主義文学——反自然主義文学の潮流⑤

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