【法政大学T日程小論文】遠藤周作『海と毒薬』作品解説

昨年度に引き続き、法政大学文学部日本文学科のT日程入試で課題図書として指定されている作品の解説をお届けします。

法政大学文学部日本文学科のT日程入試では、事前に課題図書が指定され、それに基づいて論述することが求められています。
今年度の課題図書は遠藤周作『海と毒薬』です。

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昨年(2019年)度の課題図書「大石良雄」「笛」の解説はこちら。

 

遠藤周作『海と毒薬』作品解説

『海と毒薬』は全三部構成の作品である。文芸雑誌「文学界」一九五七年六月号に「海と毒薬」、八月号に「裁かれる人びと」、十月号に「夜のあけるまで」が、雑誌巻頭を飾る作品として掲載された。

その後一九五八年に文藝春秋社から単行本が刊行される際、第三章の「夜のあけるまで」の生体解剖の場面が加筆され、さらに生体解剖後の上田ノブの心理と行動を加筆した。このことが、第五回新潮社文学賞の受賞につながったとされる。

『海と毒薬』の題名に秘められたテーマ

小説の題名『海と毒薬』について遠藤は、

海というのは、恩寵の海でもいいし、愛の海でもいいんですが、人間のなかの毒薬と対峙するものです

(『人生の同伴者』一九九一年十一月)

と語っている。また、遠藤は評論家として度々論じたフランソワ・モーリヤックの小説の方法を今小説で試みている。

『海と毒薬』の主人公が、だんだん運命というか、闇の中に沈んでいくテンポをテレーズのテンポと同じにしたい

「私と『テレーズ・デスケイルウ』」(「三田文学」一九六九年八月号)

と語っている。

テーマを象徴する「雲の祭日」

これらの言葉から伺える遠藤の考えていたテーマは、今小説で勝呂が口ずさむ雲の歌が象徴している。この雲の詩は、立原道造の「雪の祭日」であるが、立原は戦中の暗い青春の中で白い雲を見ることが戦争という悪に押し流されないための唯一の反抗であったと語る。

昼となく夜となく空襲、炎,死、別離、あの頃、ぼくは同じように、焼け野原の向うに時としてうかぶ雲を見るのをさながら唯一の悦びのように生きていました。自分が、戦争を信じないこと、死と、恐怖と暗黒とを真理であるかのように教えたあの時代にあって、白い雲をみること、人間のうつくしいものと善いものを、遠くに、あまりに遠くに、夢みることだけが、唯一の反抗であったのでした。

(「赤ゲットの佛蘭西旅行」一九五一年十一月~五二年七月)

この立原の「白い雲」は、遠藤が「恩寵の海」「愛の海」と語った「海」に通じているのは明らかである。

序章に描かれた伏線としての松原の風景

東急世田谷線

遠藤は今作発表の前年に長男が生まれ、その秋には世田谷の経堂から東急玉川線松原駅近くに転居した。その松原の様子が第一章の序章に描かれている。この序章は元々、「スフィンクスの微笑」と題した短編として発表する予定の原稿だったのを、そのまま今小説に使われたものである。

たがこの序章は物語全体の世界観を周到に読者に匂わせる伏線として絶大な効果を上げている。「新宿から電車で1時間もかかる」場末の住宅地へ越してきた「私」が、物語当事者であり、証人でもある勝呂医師と出会う。「私」が「気胸」を「するために通う近所の不愛想な医者である。

「私」はまるでストーリーテラーのように義妹の結婚式で九州へ赴き、勝呂医師の加担したF大学付属病院の捕虜生体解剖事件を知るのである。それまでも「気胸」の治療中に感じていた「嫌悪感」の原因が判明したのだ。さらに序章中一貫して異様な「微笑」として描かれ続けた、「洋服屋のショーウィンドウの人形」の「謎めいた微笑」も判明する。最初は「エジプト砂漠の『スフィンクス』を思い出した」とされた。だが、その微笑は、ギリシャ神話の「スフィンクスの謎」の「スフィンクス」であった。答えられなければ食い殺す残虐な「スフィンクス」が問うていた謎の答えが人間であることから、人間の残虐性へと読者を誘導している。

「死」の連呼からはじまる第一章

病院の階段

第一章の始まりがまた見事である。「おやじの回診は何時に変ったんや」とあり、物語がいよいよ「F大学附属病院生体解剖事件」の深層に迫り始めたことを読者に明確に告知している。さらに冒頭から「死」が連呼される。

「みんな死んでいく時代やぜ」「病院で死なん奴は、毎晩、空襲で死ぬんや。おばはん一人、憐れんでいたってどうにもならんね。それよりも肺結核をなおす新方法を考えるべし」とつづく。一気に異常な日常の世界に読者は引き込まれていく。

生死の麻痺と個々の利害

しかしこの状況下で今と変わらぬ教授間の勢力争いも同時に起こっている。次期医学部長の椅子をめぐる戦いであり、一方助教授もこれまた教授のポストを狙って業績を稼ぎたいために、貧しい「施療患者」を危険な新型手術の材料に利用しようとする。さらに助手は主任教授のご機嫌を伺うのに精一杯である。こうした個々の利害計算と生死の麻痺によって、戦時下にもかかわらず、いやむしろだからこそ、肺結核の根絶という大義名分と出世欲と保身によって事件は起こるのである。

戸田との明確な対比として描かれる勝呂の罪悪感(第一章Ⅱ)

第一章のⅡも死で始まる。

本当にみんなが死んでいく世の中だった。病院で息を引き取らぬ者は、夜ごとの空襲で死んでいく

この章で、一章から非人間的で罪悪感が麻痺し、すべてを時代の為と言い訳していた戸田との明確な対比として、勝呂の罪悪感が暗示される。あらゆる思考全てを停止する人々の中で、辛うじて「人間らしさ」を感じさせる。病院の屋上で「碧く光り」「陰鬱に黝ずんだ海を眺め」、「すると勝呂は戦争のことも、あの大部屋のことも、毎日の空腹感も少しは忘れられる気がする」。さらに「海が碧く光っている日にはふしぎにその詩が心に浮かんでくるのである。

羊の雲の過ぎるとき
蒸気の雲が飛ぶ毎に
空よ おまえの散らすのは
白い しいろい 綿の列

「その一節を口ずさむと勝呂はなぜか涙ぐみそうな気分に誘われてくる。」と描かれる。

ここに勝呂のわずかな「戦争という悪に押し流されないための唯一の反抗」があった。

しかし相変わらずの戸田の「患者を殺すなんて厳粛なことやないよ。医者の世界は昔からそんなもんや。それに今は街でもごろごろ空襲で死んでいくから誰ももう人が死ぬぐらい驚かんのや。おばはんなぞ、空襲でなくなるより病院で殺された方が意味あるやないか」という発言で、「海は今日、ひどく黝ずんで」しまう。すると、勝呂も「戦争が勝とうが負けようが勝呂にはもう、どうでもいいような気がした。それを思うには体も心もひどくけだるかったのである。」となってしまう。

ここにある勝呂の「けだるさ」こそ、人間の理性と本能、海の「碧さ」と「黝さ」で表現された葛藤における本能の勝利である。

アーレントの近代人間像と「海」

金網の外を眺める女性

ハンナ・アーレント『人間の条件』「第六章〈活動的生活〉と近代」にある近代人間像が参考になる。

社会化された人類というのは、ただ一つの利害だけが支配するような社会状態のことであり、この利害の主体は階級かヒトであって、一人の人間でもなければ多数の人でもない。肝心な点は、今や人びとが行なっていた活動の最後の痕跡、つまり自己利益に含まれていた動機さえ消滅したということである。残されたものは「自然力」、つまり生命過程そのものの力であって、すべての人、すべての人間的活動力は、等しくその力に屈服した。この力の唯一の目的は――目的がともかくあるとして――動物の種としての人間の生存である。個体の生命を種の生命に結びつけるのに、それ以上に高い人間能力はもはやなに一つ必要ではなかった。

(ハンナ・アーレント『人間の条件』講談社学術文庫,1994年)

つまり、「海」とは、「人間の生存」の象徴であり、「原罪」、「ルーツ」の象徴だったのである。その意味での「恩寵の海」、「愛の海」だったのである。いわば私は「母なる海」と解したほうが自然だとまで考える。このあと、医学部長夫人の手術に失敗し、追い込まれ、いよいよ事件に突き進んでいく。勝呂は「俺にはもう神はあっても、なくてもどうでもいいんや」と言い、部屋を出て行ってしまう。もはややけっぱちで決心したのであった。

勝呂の「乾いた口」の描写で終わる物語

その後事件が「開始され」、「微笑」「欠伸」との中で、たんたんと「殺人実験」が進められた。興味本意で見ていた将校たちの関心は、すぐに「小森少尉の送別会」に移っていた。死が溢れ、麻痺していることをここでも読み取れる。さらにこの物語の最後で、事件後非人間化への抵抗の象徴であった詩をもはや吟じられなくなった勝呂の「乾いた口」の描写で終わっている。

勝呂は一人、屋上に残って闇の中に白く光っている海を見つめた。何かをそこから探そうとした。
(羊の雲の過ぎるとき)
(羊の雲の過ぎるとき)
彼は無理やりその詩を呟こうとした。
(蒸気の雲が飛ぶ毎に)
(蒸気の雲が飛ぶ毎に)
だが彼にはそれができなかった。
口の中は乾いていた。
(空よ。お前の散らすのは、白い、
しいろい、綿の列)
勝呂にはできなかった。できなかった…。

もはやここには理性はなく、剥き出しになった人間の存在としての本能がただ在るだけなのである。この「けだるさ」の塊となった勝呂が冒頭の医師として私たちの生活の身近な隣人として回帰していくのである。日常に潜む狂気の体現者として。


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