一体あれはなんだったのかと、長い間心の淵に引っかかっているような経験を、誰しももっているものと思う。いやむしろ、普段はいろいろな違和感を無理矢理飲み込んでしまっているだけで、目の前の事象をきれいに咀嚼できることの方が稀なのかもしれない。
そういう違和感は、人生の一大局面に限らず、何気ない会話のうちに潜んでいたり、どさくさまぎれに目にした光景のうちに隠れていたりする。それらは粒だった記憶となって、ときたま思い出したように意識のうちに回帰し、なにか虚空に置いてけぼりを食らったような、そういう釈然としない思いだけを残していく。
或る尻の相貌
こう書きながら、私は今、ずっと心の澱として留まりつづけているモノクロの写真――裸の老人が風呂場の椅子かなにかに腰掛けた後ろ姿――を思い出している。20年以上前、慶應義塾志木高校の国語の試験問題に使われた写真である。詳細は覚えていないが、なにやら尻についての高尚な論説文を読まされたあと、当の写真を見たうえで、尻をテーマに長い論述を求められたのだ。一体あれは、なんだったのか?
現在の事情はわからないけれども、慶應志木は当時、東京近郊の難関私立・国立のうちでも試験日が早く、関東の上位校を志望する受験生から「腕試し」として利用されることの多かった学校である。すなわち私の代、関東エリアの受験エリートたちは、周到に準備した緊張の開幕戦、揃いも揃って老人の尻を血眼になって凝視し、解答用紙にかじりつきながら尻についての見解を書き殴っていたのだ。あの瞬間、慶應志木の校舎内は地球上でもっともシュールな空間のひとつだったにちがいない。
私自身、動揺しながらも必死に老人の尻に集中し、あるはずもない尻をめぐる知見をどうにかでっちあげて論述を完成させた。何を書いたかはまったく覚えていない。感触はよくなかったので、力まかせの欺瞞に満ちた不細工な文面ができあがっていたのだと思う。そうして答えを繕いながら、意識の背後にはつねに「おれは一体何をやらされているのか?」という疑念が付いて回っていた。おそらく誰もが同じ気持ちだったはずだ。こんな意味不明な問題で、何を評価するというのか。どこのどいつだ、こんな問題を作りやがったのは。もしやこいつが問題作成者なのではと、目の前の試験監督をじっと見つめたりもしたかもしれない。
あの尻は何の能力を見極めるための問いだったのか……
さておき、あの試験問題が一体なんであったのか、ここに至って私はじっくりと咀嚼してみたいと思う。そもそもあれは、何の能力を見極めるための問題だったのか?
一般的に、受験において必要とされる能力は形式化の能力である。種々のパターンに対してどれほどオートマティックな処理ができるか。そういう修練の強度が問われているのであって、要するにどれだけ「お約束」を積み重ねてきたかが合否を分ける。これは基本的に、勉強に費やした時間に応じて発達する能力であるから、道徳的観点から勤勉性を評価することにもなるわけである。受験において努力は裏切らないし、学校の方でも基本的に真面目な生徒が欲しい。こういうWinWinの関係によって、「受験のお約束」は固く取り結ばれている。
しかし厄介なことに、茶目っ気を出してくる学校があるわけである。趣向を凝らした問題を出すことで、紋切り型の勤勉さではなく、独自の観点や物事の考え方を評価しようというのだ。もちろん、こういう独創性やら発想力やらは、直線的な努力によっては培われない要素である。そのうえ、テーマや時間の制限があるなかで、余すところなく「自由なひらめき」を評価することには無理がある。そうであるから、多くの場合こうした搦め手は、対策しえないイレギュラーな問題として、受験生にとって理不尽な印象を与える。
学校側にとっても、こういう問題を出すのは相当にリスクが高い。着実な努力によって積み重ねた知識を問う、そういうお約束を打ち破ってまで、何を評価しようというのか。そもそもその問題で、当の能力を適正に評価できるのか。風変わりな問題を出すことそのものが、いつのまにか目的になってはいないか――奇を衒った出題は、時として「大喜利」や「とんち大会」の様相を呈することがある。評価の軸を定めていないために、解答者が地に足をつけられないまま、評価者の目を引くことばかりに気を取られてしまうのである。
尻を通して開かれた学問倫理と探究の世界
慶應志木の尻の問題も、一種の大喜利だったのだろうか。おそらくそうではないと、今の私は考えている。むしろ、問われている事柄はきわめてシンプルだったのではないか。学問において未知のものに出会ったときに、どういう姿勢を取るか。自分の常識を打ち破られたときに、それでも真摯に対象を理解しようとするか。そういう、学問倫理とも呼ぶべきものが問われていたのだと思う。ふてくされて形だけの解答をしたり、ヤケになって投げやりな解答をしたりしてはいけない。「なんじゃコレ」とか呟きながらも、好奇心に目を輝かせて事柄そのものに向き合える精神が求められていたのである。
あまりに好意的な見方だろうか? なんにせよ痛快なのは、「腕試し」に利用されていた慶應志木高校が、受験のお約束を破壊するような問題を出題したという事実である。なにやら自身を手段として利用する受験者や、そういう状況を作り出した受験産業そのものに対して、強烈な皮肉を浴びせているようではないか。……お決まりのルートに乗って、この学校で弾みをつけようというんだろう? でもね、人生はそう、思っているようにはいかないぜ……。
ここまで書いてきて、私はあの問題に、きわめて教育的な、そして倫理的な出題意図を感じずにはいない。あの尻は私たちをさんざん迷わせた挙げ句、われわれの意識を一時的に受験システムの外へと脱出させた。そうしてあわよくば、定型なき人文学の、無数の解釈が乱反射する混迷の海に、あやしく誘おうとしていたのである。すなわち、「こんな解釈をしてもいいのか」と、前学問的な中学生たちの無意識に、世の事象に向き合う探究的態度の一変種を焼き付けたわけである。
一体あれは、なんだったのか? その引っかかりを正面から解きほぐしていくと、隠れていた文脈の広がりや、気づかずにいた意図の深みに驚かされることがある。小さな違和感のうちには、しばしば他者に通じる世界の裂け目が隠れている。