日常の場面において、私たちが「約束」を重要だと考えるのは、それを破った場合に「信用」が失われると思っているからである。つまり約束を破ることは、当該の予定を無にするだけではなく、「この人との約束事は守られないことがある」というように、メタルールの次元にも影響を及ぼす。
そしてこのメタルールに生じる亀裂は、それまでの信念の体系全体にもヒビを入れる。「約束を守らない人がいる」ことへの気づきは、「人間がすべて信用できるわけではない」という疑いに転化する。大げさにいえば、私たちはメタルールに亀裂を入れられるたび、自身の「世界に対する信頼」を裏切られているのである。
この裏切りの向こうには、不安と不信の暗い海が広がっている。私たちが普段身を置いている日常は、きわめて脆弱な「設定」によって支えられているにすぎない……。裏切られる可能性は、あらゆる行為の地盤を不安定にする。テストでいい点を取れば、親は褒めてくれるはず――でも、褒めてもらえなかったら? 自分は何のために頑張るのか? そもそも、「いい点を取る=いいこと」という前提は正しいのか? 約束事の一切が信じられなくなっていく。
世の中に普遍妥当的な約束事など存在しない。その気づきから、倫理をめぐる思考がはじまっていく。倫理は特定の「お約束」のうちに他者を包摂するものではない。それは他者を受容するための第一歩である。「お約束」の一切が破棄されたところで、いかにして他者と関係を取り結んでいけばよいのか。私たちはどう生きていけばよいのか。
悩んだ末に、約束事の必要性を再認し、あらためて信念の体系を構築していくにしても、一度「外に出た」という経験は大きな違いを生むはずである。他者に触れたあとに構築された信念の体系には、ある種の「ゆるさ」がある。それは自身の信念を相対化する視点によってもたらされる寛容さである。
信念の体系には、自分がどっぷりと使っている「それ」以外にも、「別のありよう」がある。別の信念のありようを受け入れる必要はないけれども、「別様にもありうる」という可能性そのものを拒絶してはいけない。誰だって、自分が必死に考え生きているという事実を無下にされるのは悲しいからである。その拒絶から生まれる壁は、もはや対話以外の強制力によってしか破壊されえないからである。
すなわちこの拒絶こそが、本源的な意味での「暴力性の発露」なのだ。私は非力なので、わが子に暴力的な人間にはなってほしくないのである。