ゼットンは私たちを寛容にする――倫理的思考の端緒について

2歳の息子がウルトラマンにはまり、私に対して蹴りや頭突き、光線をかましてくる毎日である。妻は息子の変化を暴力性の発露として懸念しているが、それは子犬のじゃれあいみたいなもので、エネルギーの捌け口を形式化していく最初のステップにすぎない。

とはいえ私自身、息子の情緒面への影響をまったく気にしていないわけではない。とりわけ、絶対的なヒーローの敗北というショックを経験させること――そう、ゼットンの映像を流すことには躊躇してしまう。必殺のスペシウム光線をものともせず、終始ウルトラマンを圧倒するゼットンの姿は、長きにわたって子どもたちに絶望をつきつけてきた。わが子もまた、ゼットンの洗礼を浴びることになるのだろうか?

ところが親の心配をよそに、息子は動かなくなったウルトラマンを見ても、とりたててショックを受けている様子はない。2歳のわが子にはウルトラマンの敗北の意味はおろか、勝ち負けの概念すらよくわかっていないらしい。

あるいは、ウルトラマンへの同一化はしているものの、勧善懲悪の物語を内面化する段階には至っていないのかもしれない。身体的な動きを模倣してはいるが、「地球を守る正義のヒーロー」という物語上の位置づけまで理解しているわけではないのだ。

さて、物語の枠組みを持たない息子が、ウルトラマンの敗北をめぐって挫折を経験しえなかったことは、おそらく次のことを意味する。すなわち、挫折において打ち砕かれるのはいつだって物語であり、内面化されたその構造である。言い換えれば、ある種の「お約束」のことだ。

中学校までの優等生が、進学校に入って好成績を残せず挫折するのは、テストで低い点を取ったことそのものにショックを受けたからではない。「テストを受ければいい点が取れる」「いい点を取れば周囲に評価される」といった自分にとってのお約束が、新たな環境では通用しないことに絶望しているのである。

この意味で、ゼットンが打ち負かしたのは、ウルトラマンという個体である以上に、「正義の味方が悪を打ち倒す」というお約束そのものだった。疑いもしていなかった約束事が突然崩れ落ちたことに対して、我々はショックを受けるのであり、一方、約束事を知らない息子は平然と画面を眺めていられたのである。

広告

※本記事はプロモーションを含む場合があります。

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事