読者にとって退屈きわまるこの展開は、主人公に対する母の支配の強固さを描出すべく選択されたものだ。それは私自身にとって重大なテーマであると同時に、現代日本の閉塞感、いわゆる「どこにもいけない感覚」の根底に存する問題であると思われるのである。

批評家の江藤淳は、その著書『成熟と喪失』のなかで、近代日本における母性がある種のアンビバレンスのうちにあることを示す。それは端的にいえば、子が自身のもとから離れていくことへの(怨嗟にも近い)寂しさと、子の立身出世を願う感情との間の板挟み状態である。

江藤はこのアンビバレンスが生じた社会的背景として、農耕民の定住生活を基調としていた社会のうちに、敗戦をつうじて教育の機会均等をはじめとする「近代」が流れ込んできたことを挙げる。すなわち、定住社会において求められてきたはずの「親と子の同質性」と、近代が切り拓く「身分的な越境可能性」との間で、母性が着地点を見失ってしまっている、というわけである。

ここで江藤が批評対象としているのは、安岡章太郎の小説『海辺の光景』(1959年)であり、直接の視座に収まるのは戦後20年ほどの日本社会である。もちろんこの当時と現在とでは、社会的な文脈は大いに異なるのだけれども、私には上のようなアンビバレンスが現在に至ってもなお、(社会的に要請されるものとしての)母性の核心にあるように思われるのである。しかもこの構図は、その後の社会的文脈の変遷をつうじて、きわめて捻れた形での「解決」を見ているように思えてならないのだ。

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結論を先んじて言うなら、その解決は資本主義と母性とのある種の結託によってもたらされるものであり、この結託が生み出す閉鎖環境のなかで、「像に溺れる」の主人公は出口を見つけられずにいるのである。

さて、私たちはみな子として生まれ、人生のある段階において「自立」を求められる。その際には、母の庇護下から離れることが自立の要件と考えられている。現在ネット上で頻用される「子ども部屋おじさん」という蔑称は、この要件が世間的に強く信じられていることをはっきりと示している。

ところが、経済的・空間的に親元を離れることは、母の庇護下から抜け出ることを直接的に意味するのではない。たとえばエリートとして同年代の倍ほどの収入を稼いでいようが、そのエリート街道そのものが「教育ママに敷かれたレール」であるのなら、いまだ彼は母の庇護下にあるとも言える。このように自立の要件を主体的行為のレベルにまで引き上げると、おそらく「大人になること」は著しく困難になってしまう。

「像に溺れる」の主人公が感じる将来への漠然とした嫌悪感は、こうした主体的選択の困難、つまり「母によって規定されたものからの抜け出せなさ」に由来している。定められた道に留まる限り、立身出世を果たそうが、アイデンティティを確立できる気がしないのだ。自分自身の存在が、全面的に「母への甘え」をつうじて形成されてしまうように思えるからである。

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