母の庇護下に留まることの意味――「像に溺れる」あとがき

10年ほど前に帰省した際、駐車場で実家の車を擦ってしまったことがある。コンクリート壁に仕切られた狭い駐車場で、免許取り立ての頃には苦労したものだが、そのときの私はもう20代の後半にさしかかっていたので、普段なら何事もなく車庫入れできていたはずだった。いつもと違っていたのは、雨が降っていたことと、母が目の前で車庫入れの様子を見ていたことだった。

高校生の頃、私が事故を起こしたのも雨の日だった。以来、母のなかで雨と私は不吉な相で結ばれ、おそらくこの日も運転を最後まで見守ろうとしたのだろう。その重たい偏愛のまなざしに、私の体はおのずと緊張していた。母の期待や不安、そうしたものを未だ乗り越えられていない自分に、愕然としたのを覚えている。

それ以来、私はマザコンを明確に自認するようになった。同時に、mother complexという現象そのものは、あらゆる人間に妥当するものだとも考えはじめた。マザコンという言葉がもつべったりとした不快さは、それを口にすることが憚られるほどのものだけれども、人格形成の過程にあって、「母なるもの」よりほかに普遍的な規定要因はないように思えるのだ。

いま、私は一児の父となり、息子の成育過程をまなざすにあたっても、子に対する母の影響力の強さを実感せずにいない。母の存在が、彼の情緒の核に居座り、あらゆる情動の火薬となっているかのようである。過干渉であれ不干渉であれ、あるいは不在であれ、母なるものは子が世界に向き合う「スタンス」ともいうべき地盤を形成する。それは逃れることのできない呪縛であり、しかもそれは、私たちにいつもそこに立ち返ることを要求する類いの呪いとして幾度も再帰する。
(この「母なるもの」が、生物学上の母と完全に一致するのか、あるいは他の者がこれを担いうるのかについては、判断を留保したい。とはいえここでいう「母」あるいは「母なるもの」は、家庭内の役割として社会的に規定された意味での母であり、生物学上の母を固定的に指示するものではない)

連載小説「像に溺れる」は、一言でいえばマザコンの物語である。主人公の「ぼく」は、母に敷かれたエリート街道をひた走りながら、脇目に映るさまざまな生の可能性をめぐって揺れ動く。ヒロインであるヤナガワとの共存が、母の支配から抜け出す方途として一時的に見出されはするが、最終的に主人公はその道を選ぶことなく、母の庇護下へとかえっていく。物語をつうじて、主人公は何ひとつ明確な成長を見せていないのだ。

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