お疲れ様でございます。日本史科の佐京です。
今日は近代文化の4回目、思想の流れを見ていきましょう!
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目次
日本史における近代思想の始まり――啓蒙思想
さて、まず日本史における近代思想の始まりは〈啓蒙思想〉です。
具体的には、個人の理性の自立、人格の尊厳の実現を目指すもので、日本においては1873年に結成された明六社がその代表です。「明六」とは、明治6年(=1873年)のこと。
史料問題などでは必須ですし、それだけで答えが絞り込めたりもするのです。
〈明治+1867〉〈大正+1911〉〈昭和+1925〉〈平成+1988〉〈令和+2018〉
平成・令和まで載せましたが、大学入試対策としてはまずは明治・大正・昭和を押さえましょう。
さて、この明六社のメンバーですが、初代文部大臣の森有礼、『文明論之概略』で有名な福沢諭吉、philosophyを「哲学」と訳した西周などが知られています。
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天賦人権論をもとに発達した「民権論」
フランスの天賦人権論をもとに発達したのが民権論です。
自由民権運動は当時の薩長藩閥政府に対して、主に国会開設を求めた運動です。
そのなかでは、ルソーの『社会契約論』の漢文訳である『民約訳解』を著わした中江兆民、『民権自由論』やのちに『東洋大日本国国憲按』という私擬憲法を発表する植木枝盛が活躍しました。
国家主義をもとに発達した「国権論」
一方、国益や国力の充実を個人の権利よりも優先する考え方をもつのが国権論です。
これはドイツの国家主義をもとに発達し、さまざまな論客が登場します。
国粋保存主義
例えば、国粋保存主義。
政教社が発行した雑誌『日本人』では、「高島炭鉱の惨状」が発表され、炭鉱労働者をとりまく納屋(飯場)制度とよばれる合宿所の管理体制の実情が反響を呼びました。
陸羯南の日刊新聞『日本』
そして、翌年の1899年には陸羯南によって日刊新聞『日本』が発行されます。
もとの名を『東京電報』といいましたが、1899年2月11日の帝国憲法発布を機に『日本』と改題しました。
時を同じくして大隈重信の条約改正交渉が行われていて、外国人判事の大審院任用が『ロンドン=タイムズ』によって暴露されたわけですが、これを訳出して日本に発表したのがこの陸羯南の新聞『日本』でした。
▼井上・大隈の条約改正交渉についてはコチラ
日本主義を主唱した高山樗牛
そして、日清戦争後の三国干渉前後に登場するのが、高山樗牛が主幹となり東京博文館が発行した雑誌『太陽』です。
この『太陽』は、1905年、日露戦争に出兵した夫を思う妻の反戦詩「お百度詣」が掲載されたことでも知られています。
三国干渉を機に国権論に転じた徳富蘇峰
さて、いままで国権論を紹介してきましたが、もう一人、1895年の三国干渉を機に新たに国権論に転じた人物を紹介します。そう、徳富蘇峰です。
▼三国干渉についてはコチラ
徳富はその民友社の機関誌『国民之友』で当時の外務卿・外務大臣の井上馨が推進した極端な欧化主義を伴う条約改正交渉(鹿鳴館外交)を「貴族的欧化」と批判し、「平民的欧化」を説きました。
『国民之友』はその後、蘇峰が国権論に転じたことを機に1898年、『国民新聞』に吸収されていきます。
資本主義の成立と社会主義思想の流入
さて、日本で資本主義経済が成立したのは1900年頃、第二次産業革命のころとされています。
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私有財産を前提とした「資本主義経済」
この経済体制のもとで産業化が進んでくると、やがて資本主義社会には資本家と労働者の経済格差を生じます。
「私有財産」=土地や建物を持たない労働者たちは、みずからの労働力を資本家たちに安価で提供することとなり、資本家たちの自由で利己的な経済活動によって搾取されることとなるからです。
生産手段の社会的所有を唱える「社会主義」
そうしたなか、生産手段、つまり土地や建物の私有を禁じ、その社会的所有によって人間の自由と平等を実現しようとする思想が登場します。これが社会主義です。
神の下に平等であるとするキリストの教えと、社会主義の「平等」に親和性があったのでしょう。
事実、日本初の社会主義政党(非合法であり、結社禁止となった)社会民主党の創立メンバーは幸徳秋水をのぞく5名全員がキリスト教徒でした。
日本初の合法的社会主義政党「日本社会党」
日本初の合法的社会主義政党はそこから遅れること5年、1906年に設立された日本社会党です。時の内閣は第一次西園寺公望内閣で、この内閣での社会主義融和策におけるできごとでした。
治安警察法は資本主義経済が成立した1900年ころに成立した、社会主義・労働運動などを弾圧する法律です。
今回は主に明治期の思想史を概観しました。
次回は大正期以降、昭和戦前期にかけての思想の流れを見ていきましょう!
ではまた。