短い言葉を残して去っていった彼女の背中を、ぼくはもう追いかけようとは思わなかった。
曇りなく映じた生身の彼女は、ぼくとは交わらない軸の世界で生きようとしている。
その世界がどのようであっても、彼女は彼女であり、同時にぼくはぼくでしかない。
自分の像がどうであろうと、自分自身から逃げ出すことなどできず、その袋小路の構造自体はきっと誰に対しても平等だった。
そこに埋没するのか、あるいはそこから抜け出そうとするのかは、ぼくらの自由に委ねられている。
おそらく、そういう状況に対する抵抗力に、その人の意思の力が表れるのだと思う。
もし、袋小路から抜け出す試みを共有できる仲間がいるのなら、それは目に映る世界を一変させるチャンスなのだろう。
だけど――ぼくは座り込む小柳に近づき、しゃがんで目線を合わせた。
いまだに納得のいかない思いが、瞳の奥でゆらゆらと燻っている。
「すまない。ぼくは君を裏切ってしまった。これから生きていくなかでも、ぼくは君を裏切り続けるのだと思う」
小柳は顔を上げ、まっすぐにぼくを見つめた。
ぼくの言葉を反芻するようにしばらく逡巡したあと、ぼくの意図を悟り、再びその目に力強い光を取り戻す。
「いいんだ。ぼくは君のことを忘れないだろう。ぼくは君のことを、ずっと思いを同じくする仲間だと思い続ける。君も、ぼくのことを忘れないでいてほしい。たとえぼくを裏切り続けるのだとしても、裏切り続けていることを忘れないでいてほしいんだ」
澄んだ言葉は研いだ刃物のように鋭い。
ぼくはこれから、それに何度も刺されることになるだろう。
小柳が手を差し出してくる。
握ったその手は汗ばみ、小柳の熱と確信を感じさせる。
ぼくの手はきっと、薄っぺらな情動しか伝えていないのだと思う。
置かれた状況によって閉ざされる無数の可能性があって、また一方で状況によって切り拓かれるわずかな可能性があり、そのなかで小柳は自身の状況に対する抵抗を試みている。
ヤナガワサンもそうだった。
その抵抗力が、あるいは人間の尊厳と呼ばれるものなのかもしれない。
そしてぼくは、いま、その尊厳を手放してしまおうとしている。
ぼくにとってそれこそが、ぼく自身の状況に対する抵抗だった。
「帰るわよ」
その声に従うことの惨めさを、従うことができる境遇の無責任さを、ぼくはこれからずっと感じ続けていくだろう。
この負い目を決して忘れてはいけないと思う。
踏み出した地面はひどく頼りない感触をしている。
揺れ続けなければいけない。
すべての疚しさを抱え込んで、ぼくは宙ぶらりんのまま揺れ続けなければならない。
―完―
[連載小説]像に溺れる
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