抱き上げたコーウの体は、私の手よりも少しだけ暖かかった。
世界が自分に害を為すことなどないと、いまだに信じ切っている表情に、大丈夫かこいつと思わずにいない。
成長しようとするこの命は、これからどんな形になっていくのだろう。
それは私にとって知りようのないことだけど、坊主の腕からコーウを取り上げたことで、私はそこに何かの折り目を刻み込んだのかもしれない。
アイツはなにやら思い詰めた表情をしている。
たぶん自分の存在意義とか、つまらないことを考えているのだと思う。
お前はこんなところにいるべきじゃないと、言ってやった方がいいのだろうか。
生きるべき世界は、きっと大体決まっているのだ。
私が何に対して何を思うかを、私は決めることができない。
端っこの方を矯正することはできても、一番最初の、地面の上に立つ姿勢みたいなものは変えられない。
誰でも自分のスタートから始めるしかなくて、自分だけの初期設定みたいなものが、よくも悪くもその人を成り立たせる。
教育ママを持つガリ勉優等生、結構じゃないか。
スタートからきっちり走り続けるなんて、そうできることじゃない。
それなのに、そこからはみ出したがっているコイツに、お前はそうじゃねぇだろと言うのは残酷なことだろうか?
アイツが私の名前を呼んだ。
なにか重要なことを伝えようとしていて、でも、なんとなく、口に出さなくても伝わってくるものがある。
重要なことを伝えようとしていること自体が、それなりに重要なことだったりする。
実際になにを伝えられようと、私の返す言葉はおそらくもう決まっている。
そこにいきなり現れた母親に、本人は愕然とした顔をしているけど、こっちとしてはそう意外にも思えなかった。
羨ましいのとは違うけど、そうだよなぁ、と変な納得感がある。
全然、それでいいじゃんと思う。
大変だろうけど、それはお前にしか乗り越えることのできないものだ。
私にも私なりの、私にしか乗り越えることのできないものがあり、それは私を私にする。
「おい、そろそろズラかるぞ」
ヨネザワが背中を小突いてきた。
確かにドサクサのまま、ここから離れてしまった方がよさそうだ。
コーウも心なしか落ち着かない顔をしている。
ただ、まだアイツに伝えていない言葉がある。
こっちの迷いを読み取ったみたいに、いきなりコーウが泣き出した。
揺すってみても、背中を叩いてみても、この世のすべてを拒絶するような泣き声は止まらない。
ヨネザワは面倒そうなしかめ面を浮かべているだけだ。
取り戻したことを少しだけ後悔する。
いつのまにか目の前にアイツのママがいた。
一瞬身構え、しかしすぐに警戒が無用なことがわかる。
母親の目だ。
その腕に、コーウはすっぽり収まった。
少しなんだか、心が後ろの方に引っ張られる感じがした。
こういう瞬間が、ママにもあったのだろうか。
だとしたら、どこでおかしくなったのだろう。
一瞬考え、すぐにやめにした。
それはたぶん私にとって、何の発見も、何の力も与えない。
忘れることで、私は私を手に入れる。
今はともかく、コーウを寝かしつける方法を見ておこうと思った。
眠りについたコーウは、陽だまりみたいな顔をして、その体はやわらかく重たい。
あらゆる変化に対して無防備で、しかしどうとでも形を変えられる体。
それは少しずつ硬くなる。
うまく形になる方法を私は知らず、あるいはそれに抗う方法も、忘れる以外に持っていない。
ヨネザワがスマホを確認し、「行くぞ」と来た道を引き返す。
それからほとんど間を置かず、再び私の名前を呼ぶ声がした。
振り向くと、ソイツはいつのまにか吹っ切れたような顔をしている。
「君が見せてくれた世界を、ぼくはずっと忘れない」
覚えていてもらえることは、たぶん幸せなことなのだろう。
でも、私に割かれる記憶の容量に対して、私が差し出せるものはなにもない。
用意していた言葉だけ置いていこうと思った。
たぶんもう伝える必要もなさそうだけど、そのくらいの方が後腐れもないだろう。
「お前はお前だよ。今まで、ありがとう」
ソイツのはにかむ表情を残し、すぐにヨネザワのあとを追う。
ともかく、コーウを起こさないよう慎重に。
[連載小説]像に溺れる
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