「薬? 人身売買? いま彼は、そう言ったか?」
小柳はいまにも爆発しそうな感情を抑えつけるように、そうぼくに問いかけた。
あるいはそれは、感情を発露させるための確認であるようにも聞こえた。
「言ったね。しかし、本当かどうか、今は判断のしようがない」
「なんてことだ。そこまで腐敗していたなんて」
留保を設けようとするぼくの言葉は、彼の耳には届いていないようだった。
彼のなかでとめどなく、しかし健やかに奔走していた情動が、物々しく尖った形状へと凝固していくのがわかる。
「落ち着くんだ。あの男がハッタリを言っている可能性もある」
「いや、もう間違いない。選ばれた子たちは結の儀という儀式によって、ぼくらの罪を代理し、その後は聖なる存在として『大願さまのみもと』に行くことになっている。しかし、結び目になった子どもの行方は誰も知らないんだ」
「生け贄の儀式ってこと? それにしたって、その推論は突飛だ」
一度熱を奪われてしまったぼくの言葉は、いまにも融解しそうな彼の心に届くことはなかった。
「ねぇ、ぼくが子を抱えている男に飛びつくから、その隙にあの子を奪ってくれないか? あの彼女も、どうやらそれが目的だろう」
「そんな、無茶だ。ほかに四人もいるじゃないか」
「いや、目に見えて迷っているだろう。あのスキンヘッドのおかげだ。とっさに動けやしないさ。最悪、ぼくのことは放って逃げてくれればいい」
「そんなことをして、君に何の得があるんだ」
「ぼくの代わりに、赤ん坊が自由を得られるかもしれないだろ? よし、今だ!」
そう言って、小柳は勢いよく飛び出し、紫の法衣の胴をがっしりと掴んだ。
「何だ、おい、どういうつもりだ。おい、こいつをどうにかしろ」
小柳の勢いに対して、弱々しく平衡を保とうとする肉体が、思ったよりも老いたものであることを感じる。
「はやく取り返すんだ!」
小柳の叫びに促され、ぼくはヨロヨロとその場に出る。
視線が集まり、体が固く、縛られたように動かない。
その瞬間、背後から俊敏な動きで何かが通り過ぎていった。
視認するより先に、バニラの匂いが鼻腔に届く。
ヤナガワサンは勢いのまま、男の股間に飛び膝蹴りを喰らわせた。
倒れ込む男の腕から赤ん坊をもぎ取り、ひしと抱き寄せ安堵の表情をそちらに向ける。
見たことのない顔だ。
胸のうちでなにか透明な、ほのかに体温よりも冷たい風が吹き抜けた。
目の前の彼女は、これまで目にしたどんな彼女よりも、現実に接地した存在感をもっていた。
僧たちは誰も動かない。
スキンヘッドの男がヤナガワサンのもとに駆け寄り、僧たちから距離を取らせる。
小柳と紫の法衣の男だけが、いまだに激しく格闘していた。
「最低だ、お前らは。返せよ、ぼくの将来を。父さんと、母さんを返してくれよ」
「みんな、自由な意思で……」
「ふざけるな、お前らは、人の未来を食い物にしたんだ。弱くなっている人を、さらに弱い立場に置いて、抜け出せないようにして」
「君の両親は、現に救われている」
「ばかにしやがって。勝手に作った枠に、人間を、ぼくらの尊厳を押し込めてるんだ、お前らは」
スキンヘッドがゆっくりと小柳たちに近づき、二人を強引に引き離した。
「やめろ。そいつに言ってもしょうがねぇよ。自分の考えなんて持ってないんだからよ」
「どうして。本当のことを知って、加担していたんだ。責任はある」
「責任を放棄したくてそうなってんだよ。お前さんが相手にしてんのは、もっとこう、途方もなく大きいもんだ。人間の弱みそのものと言い換えてもいい。考えたくない、ってのもそうだ。今のまま変わりたくない、ってのもそう。食いもんにする側も、される側も、そこは一致してんだよ」
小柳はその言葉に思い当たる節があるのか、考え込むようにして黙ってしまった。
考えたくない。変わりたくない。
行動に出た彼らに対し、唯一動かなかったぼくは、むしろ「そちら側」に属しているのかもしれない。
ヤナガワサンは赤ん坊と、何かを深く理解しあったみたいに見つめあっている。
それは途方もなく遠い光景だった。
彼女はみずから変わろうとして、きっと現に変わりつづけている。
孤絶した椅子から、防護膜を通じて見る世界に、ぼくは足を踏み入れようとしなかった。
きっとこれが普通なのだ。
このようにして、みんなそれぞれ少しずつ歪んだ像に溺れながら、それに気づかぬフリして生きている。
でも、ぼくは――膜の外に触れたかった。
たとえ結局のところ膜の内側で生きるしかないのだとしても、一度、世界と直に触れてみたかった。
「やながわさん」
今後はちゃんと届いたと、はっきりわかった。
ヤナガワサンが赤子を抱いたまま、こちらに目を向ける。
知っている顔だ。
ぼくをぼくとして見ている顔だ。
「ぼくは、君のことが――」
続く言葉がわからなかった。
ぬるまったい沈黙。
宙ぶらりんの感覚は、不思議と居心地の悪いものではなかった。
しかし、それを破ったのは、いま一番耳にしたくない声だった。
「こんなところで、何をしているの。人様に嘘までつかせて。というか、これは一体どういうこと?」
[連載小説]像に溺れる
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