#105 息差――像に溺れる【第5章】

文鳥のようにこぢんまりと軽やかな体に、飢えた豹みたいな、こちらを釘付けにする目つき。
何度も思い描いた姿がいきなり目の前に現れ、ふっと現実への接地感が奪われてしまう。
言葉はすでに周回遅れで、振り絞るような「やながわさん」の呼びかけは、そのままぽとりと足元に落っこちた。

「誰。急いでるから」

振り出しに戻ったような感覚に、ぼくは立ち尽くすよりほかなかった。
寸刻を惜しむように、彼女はスキンヘッドの男と立ち去っていく。

ここ一年、ずっと夢でも見ていたのだろうか?
彼女の像をめぐってのたうち回ったぼくの心は、現実の彼女になにひとつ通じてはいなかったのだ。

「あの人は?」
困惑した表情を浮かべながら、小柳がぼくに問いかける。
そこには依然として友情の熱がこもっていたけれども、ぼくはまるで海水浴場で迷子になった五歳児のように、すっかり先ほどまでの勇猛さを失ってしまっていた。

「無様だ。結局、ぼくは空回った」
「空回ることが無様なもんか。よかったら、聞かせてくれ」

ヤナガワサンとの関係――幻のうちに消えてしまいそうなそれを、ぼくは語ることで引き留めなければならないと思った。

「彼女は、ぼくのクラスに来た留年生で……母親がこの教団にのめり込んでから、非行が目立つようになったらしい。学校では誰とも馴染もうとしなかった。でも、彼女はそういう自分をすこしも恥じてはいないように見えた。ぼくはそういう彼女に惹かれていた」

急激に冷やされた胸の昂ぶりが、湯気のようにもわもわと、方向性なく立ちこめてくる。
一方の小柳は、その余熱をしっかりと体内に押しとどめ、ぼくの言葉がなにか重要な告白であるかのように、熱くうるんだ瞳を向けてくる。

「二人で海まで行ったこともある。学校の外に世界をもっていた彼女と、時間を共にしている自分が、それまでと違う人間になったように思っていたんだ。でも、彼女は学校に残ろうとはしなかった。退学の意志を固めた彼女に、ぼくは何も言うことができなかった。ぼくは彼女をなにひとつ理解していなかったんだ」

小柳はすこし思案して、言った。

「君はきっと、彼女のために何かをしてあげようと思ったんだ。でも、何が彼女のためになるのかわからなかった。そうだろ?」

それは喚起する力に満ちた言葉だったけれども、鈍重になったぼくの心を上向かせはしなかった。

「そもそも、ぼくと彼女は交わらないんだ。結局、ぼくは無責任に、親が用意したレールを進むことが性に合っているんだ」

「君がそう思うならそうすればいい。思考を止めることは楽だ。でも、君は考えることを放棄できるような人間じゃない」

「買いかぶりすぎだよ。彼女に惹かれたのだって、現状のぼくを肯定したかっただけなんだ。彼女の実像を捉えて、何も特別な人間じゃないとわかれば、ぼくは変わらずに済むのだから」

「頼むよ、外に出るんだ。というか、君はもう現実のうえにその足で立っているじゃないか。人と交わることから、逃れることなんてできないんだ。そうやって内にこもろうとするから、大切なサインを見落とすんじゃないのか」

「サイン? 一体何を……」

「去り際、彼女は君のことを一瞬見ていたじゃないか。あれは、知らない人間に向ける目じゃなかった」

「適当なことを言わないでくれ。彼女は、ぼくに特別な気持ちを抱くような人間じゃない」

「うぬぼれちゃダメだよ。特別扱いを期待するから、殻に閉じこもることになるんじゃないか。目を曇らせちゃいけない。君には彼女のためにできることがある」

「君は一体、ぼくに何をさせたいのさ」

「わからないのかい? あの赤子をめぐって、何かが起きているんだ。彼女はそれに巻き込まれている。見て見ぬフリをしたら、君は一生そこから目を背けつづけることになる。彼女のことだけじゃない。君がほんらい大事に思えていたはずの、さまざまな事柄に対して、君は目を背けつづけるんだ。それはとても悲しいことだと思う」

小柳の言葉がぼくの未来を正確に描いているように思え、ぼくは何も言い返すことができない。

「ともかく、ぼくは向こうに行ってみるよ。ぼく自身、ここで何が起きているのか確かめなきゃいけない」

小柳はそう言って、ヤナガワサンたちが消えた方向へと走っていった。
ぼくは何の決意も固まらないまま、林のなかにひとり取り残されることを嫌い、彼らの後を追うことにした。


[連載小説]像に溺れる

第1
第2
第3
 ANOTHER STORY —ヤナガワ—
第4
 ANOTHER STORY —ヤナガワ—2
第5
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