お疲れ様でございます。日本史科の佐京です。
第21回の今日は、近代文化の3回め、文学の流れの後編をみていきましょう。
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目次
1910~20年代の文学
夏目漱石・森鴎外の「反自然主義(余裕派)」
前回の記事の最後で、社会の暗黒面をもありのままに描くという自然主義をとり上げました。
森についてはロマン主義でも登場していますが、このころの森の作品は1913年に発表された『阿部一族』に代表される歴史小説が中心です。
人道主義・理想主義・個人主義を念頭においた「白樺派」
その一方で、白樺派のような人道主義・理想主義・個人主義を念頭においたグループも出てきました。
代表的な人物は武者小路実篤(『お目出たき人』『友情』)、志賀直哉(『暗夜行路』)、有島武郎(『或る女』)が挙げられます。
美を最高価値ととらえる「耽美派」
耽美とは、「美」に「耽る」、つまり美を最高価値ととらえてこれにひたる、という意味です。
代表的な人物としては永井荷風、谷崎潤一郎らでしょう。
永井荷風
慶大文学部教授をつとめた永井荷風は当初はゾラに傾倒し、自然主義的な作風でしたが、1908年に欧米から帰国後、『あめりか物語』・『ふらんす物語』を相次いで発表して耽美派の代表となります。
また、日記『断腸亭日乗』、向島にあった私娼街を舞台にした『濹東奇譚』(隅田川の東の意)も有名です。
谷崎潤一郎
谷崎潤一郎は東京帝国大学在学中に『新思潮』(第2次)を創刊し、刺青師が刺青を彫った女性の官能的美を描く「刺青」などは永井荷風に激賞されました。
「陰翳礼讃」のなかで谷崎は夏目漱石の「草枕」にも言及していますが、これを文学史のつながりでみると面白いですね。
大学受験日本史では『中央公論』に連載された小説「細雪」が戦時にそぐわないとして連載中止になったこともおさえておきましょう。
第3次・第4次『新思潮』による「新思潮派」
新思潮派は芥川龍之介、菊池寛らの同人雑誌『新思潮』によったグループです。
芥川の作品は、初期は「羅生門」「鼻」など歴史・古典に取材した作品が多いですが、晩年は「河童」「或阿呆の一生」など人間社会を批判する作品や自己の内面を省みる作品が増えます。1927年には「ぼんやりとした不安」から服毒自殺をしました。
大正末期から昭和戦前期の文学
斬新な主観的表現・新たな文体を求める「新感覚派」
1924年に創刊された雑誌『文芸時代』によったグループ、代表的人物は横光利一や川端康成です。
急速に社会が変化するなかで、彼らは都市生活において人間と物質との新たな関係を模索します。
そこで無生物を主語とする文章などの新たな文体を用います。
また、「私の眼は薔薇を見ている」という状況を「私の眼が赤い薔薇だ」と表現し、美しい薔薇に眼を奪われている・夢中になっているという状況を「主観的」に表現するのです。
無産階級の現実を描く「プロレタリア文学」
プロレタリア文学とは、無産階級、つまり労働者や農民たちの現実を描いた文学です。
1921年の『種蒔く人』以降、プロレタリア文学運動が活発になります。
文芸戦線はこのあと1925年に設立される日本プロレタリア文芸同盟の活動の中心的な存在となります。
参加者のなかの葉山嘉樹は社会民主主義者として有名で、横浜・室蘭間で石炭を運ぶ貨物船の船員の苦難を描いた『海に生くる人々』が有名です。
社会主義者達に対する弾圧の強まり
さて、1920年代の後半は社会主義者たちに対する権力の弾圧が強まっていく時期でもあります。
1925年には治安維持法が制定され、同年の京都学連事件で初めて同法が適用されます。
ちなみにこの数か月後には緊急勅令によって治安維持法が改正され、目的遂行罪が追加され、また最高刑が死刑に引き上げられました。
▼治安維持法改正についてはコチラ
全日本無産者芸術連盟(ナップ)の結成
こうした状況下で結成されたのはナップ(全日本無産者芸術連盟)です。
ナップとはエスペラント語のNipponia Proleta Artista Federacioの頭文字をとったものです。
『戦旗』は1931年には廃刊され、ナップもコップ(日本プロレタリア文化連盟、Federacio de proletaj Kultur-Organizoj Japanaj)に発展的に解消されます。
娯楽性を重視する「大衆文学」
大衆文学とは、大正末期以降に起こった娯楽性を重視した文学のことです。
本作が未完の大作といわれるゆえんです。
また、直木三十五は死の翌年に「直木賞」が創設されたことでおなじみ。
代表作は『南国太平記』です。
そのほかにも吉川英治『宮本武蔵』や大佛次郎の『赤穂浪士』などを押さえておきましょう。
以上が、戦前期までの近代文学の流れの概観です。
▼近代文学史についてはコチラ
次回は近代思想の流れを見ていきましょうね。それではまた!