彼女はその教団の立ち上げに関わった福永という男について、感情を押し殺すように話しはじめた。
「私と彼は、大学三年頃から同じゼミに所属していた。人当たりがよくて、けれど何を考えているのか掴めないような印象があったかな。研究テーマは罪。人間の存在にとって、罪の意識がもっとも根源的な要素だと考えていたのね」
たとえばぼくの人格を削ぎ落としていったら、最後に罪の意識が残る――ぼくにとっても、それは頷ける考え方であるように思えた。
ぼくが生きている限り、自分自身に対する疚しさは、ずっとこの身について回るにちがいないのだ。
「福永にとって重要だったのは、誰もが罪を持っているという普遍性ではなかった。自分自身の根本にある罪に対して、各々がどういう向き合い方をするのか。その向き合い方が人格を形成する過程に、彼の興味はあった」
ぼくは自分自身が、何に対して負い目を感じているのかを考えた。
一番に浮かんでくるのは失望した母の顔だった。
心臓が掴まれ、呼吸が浅くなっていく感覚がある。
これがぼくを形成する核なのだろうか。
「大学院に進んでから、彼はその向き合い方のありようを『自己免罪の形式』と呼んで類型化しようとした。要するに、どうやって自分自身を許すか。あるいは自身の存在を、自分に対してどう正当化するか、と言い換えてもいい。彼はそういう自己免罪のあり方を体系的に整理して、人格形成との関係を論じようとした」
自分が存在してもよいことを、どのように理由づけるのか。
たぶんこれまで、ぼくは学校の成績によって自分を免罪してきたのかもしれない。
「実際に、どんな類型があるんですか」
「大きく、罪から目を背ける逃避型、別の価値によって罪を埋め合わせようとする代償型、自分に罰を与えることで釣り合いを取ろうとする自傷型、他人の罪を見つけることで自分を相対化する転嫁型、という四つの区分がある。それぞれのタイプによって、その人が重んじる価値や道徳の基準が変わると彼は主張した」
彼女はカバンから古いノートを取り出して、そのうちの1ページを開いた。
彼女が指した簡易的な図の中には、四類型のそれぞれに対して、重視する価値、採用する道徳基準が記載されていた。
「たとえば代償型は、社会的な名誉に価値を置き、義理を道徳の基準に据える。育ててもらった恩を名誉で返す、というモデルが念頭に置かれているみたい」
その区分の妥当性については、一見しただけでは判断できなかったけれども、ともかく罪への向き合い方が道徳基準のあり方を規定するという主張に、少なからずぼくは引き込まれていた。
「福永さんにとっては、世界像を映し出すフィルターが、罪との向き合い方によって定められるってことですね」
「そうね。だから、私の関心にとっても彼の理論は大きな意味を持った。信仰と罪は当然、切っても切れない関係にあるんだけど、それは宗教的な信仰が見られない場合にも同じことがいえる。誰もが信仰をもっていて、それは誰のうちにもある自己免罪の形式によって規定される……私たちはそのことを強く確信していた」
自分自身への言い訳が、広い意味での信仰を形づくる。
それは要するに、自分をどう正当化するかによって、世界の捉え方がまるごと変わってしまうことを意味した。
「反対に、宗教的な信仰心も、自己免罪の形式に由来するということですか?」
「福永の考えに則るなら、そういうことになる。彼はずっと、道徳的な正しさの観念は、現実にある罪から事後的に生み出されると考えていた。悪いことが先にあって、それを禁止することで正しさが生まれるってことね。福永は、そういう罪への向き合い方を共有することが、共同体の成立要件だとも主張していた」
「正しさよりも罪が先だっていうのは、普通の考え方とは逆ですね」
「この点が、彼の研究でもっとも独創的だった部分でもあり、同時に危険な部分でもあった」
「危険な部分?」
「罪から正しさが生まれるっていうのは、裏返せばこういうことになる。ある集団のなかで新たに罪を措定することは、その集団内のルールをデザインすることを意味しかねない」
「例の教団のことですか」
「そう。彼は研究を通して得た知見を、新しい教義を確立するために利用した。何を罪とするか、それにどう対処するかを共有することで、人々の間に強いつながりができると確信していた。結果として、今の浄世光就会の教義的な地盤を作りあげてしまった」
不意に彼女の口から漏れたその教団の名前は、ヤナガワサンの親が帰依する宗教団体にほかならなかった。
可能性のままに留めておきたかったものが、現実として目の前に差し出され、ぼくは言葉を失い立ち尽くすよりほかになかった。
[連載小説]像に溺れる
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