「私たちの物の見方は、私たち自身には決められない。それはいつも、すでに決まってしまっている。それなのに、私たちはそのフィルターによって運命づけられている」
そう語る彼女の碧の瞳には、きっとぼくの知らないぼくが映っているのだろうと思う。
「そういう信仰のフィルターを通して見えるものを、私は世界像と呼んでいる。私たちはそれぞれ、その像の世界の中を生きている」
ぼくはヤナガワサンのことを考え、きっとぼくはずっと、彼女の目に映る像がどのようなものなのかを知りたかったのだと思った。
結局のところ、ぼくは彼女のうちにあるフィルターの色も形も、何一つ見通すことはできていなかった。
「人がすれ違うのは、フィルターの形が違うからですか?」
「そうね。私はそう思う。フィルターを理解することと、誰かを本質的に理解することはとても近いことだと思わない?」
ぼくは母について考える。
母のうちにあるフィルターの形状は、その生々しい質感とともに想起することができた。
それは何か強固な、誰かが誰かに対して下してきた無数の評価がヘドロのように堆積し、マグマの熱とともに固形化されたステレオタイプであり、つまるところ世間の暗い視線が結晶したものだった。
「他人と同じ世界像を持つことはできると思いますか?」
「難しい話ね。少し昔の話をしてもいいかしら。30年くらい前に、100棟以上の集合住宅で、貯水槽に薬物が混入される事件があった。大量のドラッグが水道水に混ぜられたのね。死者は出なかったし、体調不良を訴える住人が数人出たくらいだった。だけど、それが宗教団体による組織的な犯行だったから、世間では相当に話題になったわ」
話の脈略がわからず、しかしともかく話の続きを聞くよりほかはない。
女性の瞳は深い記憶の色を宿している。
「その団体は普段から、儀式のたびに薬物を使って信者を陶酔状態に陥らせていた。簡単にいえば、薬で心の壁を取り除こうとしたわけね。自他の境界をなくし、宇宙の原理と一体となることが、その教団の軸とする教義だった。それと同じ効果をさらに広めようとした、というのが見解として定着していたかな」
「効果が広まることと、教義が広まることはまったく別のことですよね」
「そうね。だから私は、その教団が人々のフィルターの形状を無理矢理変えようとしたんだと思っている。もし仮に、あらゆる人間が一斉に陶酔状態に陥ったら? 『個』というものがなくなって、すべてがつながり、大きな一つの原理に導かれていく。それが、教団にとっての理想状態だった」
「誰もが同じ世界像のなかで生きる……」
「暴力的よね。もちろん、完全に閉じた世界像は孤独そのものだし、誰かと同じものを見ていたいっていうのは自然な気持ちだと思う。でもやっぱり、それは誰もが違う世界像のなかで生きているっていう前提があるからこそでしょう。違うからこそつながりに意味が生まれるのよ」
碧の瞳が強い光を宿し、唇に血の色が鮮やかに浮かぶ。
何か、目の前の彼女の輪郭がはじめて明瞭に捉えられた気がした。
「その教団は今も?」
「教祖と幹部が捕まって、もう名前は残っていない。ただ、散り散りになった信者たちがいくつかの教団を立ち上げて、それまでの教義を引き継いだり、あるいはまったく異なる教義を掲げたり。単なる拝金主義に陥った教団も少なくない。献金で生活苦に陥った信者を、系列の人材派遣会社で安価に労働させたりね」
「それは、表沙汰になっていないんですか?」
「悪質なマルチ商法で検挙されたケースはあったけど、氷山の一角でしょう。なかには勢力を拡大して、今ではカルト教団としてよく知られている教団もある」
彼女の言うことが事実なのか、俄には判断がつかなかった。
彼女は何かぼくの心の内を確かめるように、ぼくの顔をのぞき込んだあと、観念した罪人のような調子で「私の大学の同期が、そのカルトの幹部にいるの」と打ち明けた。
[連載小説]像に溺れる
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