最寄り駅から上下に一つずつ、陣地を広げていくように駅の周りを歩く。
目につくのはいつも曖昧な建物たちだった。
古い民家をそのまま使ったアトリエ、貸倉庫のようなスナック、モダニズム建築みたいな火葬場……
見た目からは用途が判然としない建築物は、街の文脈から浮き出すように、ぼくに「なぜ」と問うよう促してくる。
馴染むというのは、人に疑問を抱かせないようにすることにちがいなかった。
七月の終わり、ぼくは自宅から西に向かって七つめの駅を散策していた。
少し離れた住宅街の並びを歩いていると、レンガ造りの洋館が目についた。
歴史の資料集に出てくるような、明治期の建築物ほどに古そうに見え、そこだけ異なる時間が流れている感じがする。
入り口に門はなく、表札らしいものも見当たらない。
玄関へと続くアプローチは、庭の雑草で半ば覆われてしまっていた。
「図書館なんですよ。珍しいでしょう」
振り返ると、日傘の下から70代くらいの女性がこちらに微笑みかけ、そのまま通り過ぎていった。
老婆の行く先が陽炎で滲み、その光景は防虫剤となってぼくに宛てのない散策を思いとどまらせた。
考えるより先に、身体が玄関に向かっていく。
扉を開けると入り口には卓が置かれ、記名用のノートが広げられている。
そこには同じ女性の名前だけが繰り返し記入されていた。
崩した字体であるにもかかわらず、判で押したように均一な筆跡だった。
本棚に挟まれた細い廊下の先に、いくつかの閲覧スペースが見える。
廊下を抜けると、ぼくの母親くらいだろうか、閲覧席で重厚な本に見入っている女性がいた。
視界に入らないように通り過ぎようとしたが、女性は不意に顔を上げ、ぼくの顔をじっと見つめてくる。
「あなたは救われたいと思う?」
書庫の壁に密閉された声は、動揺を誘う厚みをもってぼくに響いた。
その瞳は碧がかったグレーで、しかし顔立ちは東洋人のそれに見える。
位相の歪みのようなものを感じながら、ぼくは彼女の意図を推し量ろうとするのだけれども、瞳の色がさまざまな表情を曖昧に濁してしまう。
「急にごめんなさい。あなたくらいの子が、ここに来ることは珍しいから。ここの蔵書は、ほとんどが宗教関連のものなの。明治時代の終わり頃、日本で宗教学が始まった頃からの資料がある。あとは、民俗学や思想に関連するものが多いかな」
「もともと、宗教学者の人が住んでいたんですか?」
「比較宗教学の権威だったみたいね。私も学生の頃にそれを専攻していたから、その人の本はたくさん読まされた。共同体の形成において、信仰というものがどんな役割を果たすのか、とても明瞭に分析していた」
「共同体と、信仰……」
「わかりにくいかしら。むしろ、私たちが他者と関係をもつとき、そこにはいつも信仰が作用していると言ってもいい」
女性がこちらに向き直り、顔をぐっと近づけてきた。
警戒なのか羞恥なのか判然としない感覚が、彼女の瞳からまるごと覗き込まれている気がする。
「今この瞬間もそう。快適に感じるパーソナルスペースは、文化圏によって違う。もちろん個々の生育環境によっても」
「パーソナルスペースも信仰なんですか?」
「私はそう思うわ。少なくとも、何か特定の宗派に帰依していることだけが信仰じゃない。生まれ落ちた環境、その時代の社会的文脈、関係を持った人からの影響。あなたの信仰は、あなた自身を形成するものから生じている。何を善とし、何を悪とするか。何を好んで、何を嫌うか。そういう基準を定めているものを、広い意味での信仰と呼べるんじゃないかしら」
「意味が広すぎる気がします」
「確かにそうかもね。でも、自分ではコントロールできない何かに行動原理を規定されているという意味では同じでしょう? それに対して自覚的であるかどうかにかかわらず、人間は自分のうちにある超越に規定されている。宗教の信者と呼ばれている人たちは、たまたまそれが神様だったり仏様だったりするだけ」
ぼくはぼく自身を規定しているものについて考える。
その大部分は、母親の思念と、実体のない世間に由来しているように思われた。
ぼくは、母と世間を信仰している――その突拍子もない考えは、けれども不思議と、ぼくの本質を的確に表現しているようにも思えるのだった。
[連載小説]像に溺れる
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