世界の表面から足が数ミリ離れてしまった感覚が、うすぼんやりした神経の、目立たぬ回路を上書きしつづけている。
肉体はいつもなにやら所在なく、一方ぼくの精神は、深海の水圧に押し潰されてしまったみたいに、いくつかの重要な機能を停止させていた。
決定的だったのは、心をひとつの場所に留めておく機能だった。
濃度と重みの異なる思念が、時をえらばず次々とぼくの内側へと入り込み、遡上するサケのように暴れては、突然泡のように消えていったりした。
1学期末のテストでまた順位が下がり、ぼくに対する母の信頼はすでに地に落ちていた。
夜、リビングの方から母のヒステリックな声が響いてくることが増えた。
ぼくの現状について、電話で父と何かを言い争っているようだった。
リビングには何か有毒な気体が蔓延しているみたいに、ぼくの神経をすり減らしてくるので、粗末な虫のようにぼくはその場所に近づくことを避けるようになった。
夏休みに入って間もなく、父が赴任先から一時的に帰ってきて、3日ほど過ごして戻っていった。
その間、根本的な何かが変わるということはなかった。
帰ってきた初日、三人で囲む食卓は、互いの出方をうかがう沈黙に多くの時間が費やされた。
茶碗の白米が疎らな米粒になったころにようやく、父が「学校の方はどうだ?」と寛容さを振り絞るように口を開いた。
しかし母の監視下にあるそのやり取りに、血の通った何かが生まれることはなかった。
「それなりにやってるよ」というぼくの返事には、すぐさま母から「十も順位を落としてよく言うわ」と嫌味が重ねられ、そのままあらゆる会話の可能性は遮断されてしまった。
滞在中、父は母の目を盗むように、ぼくに何度か「勉強だけが人生じゃない」「道に迷ったらいつでも味方になる」といった言葉をかけてきた。
けれどもそれらは、今目の前にある母との不調和な生活に対して、なんら実効的な解決策をもたらさなかった。
そうして、別れ際に老犬のような笑顔を残し、父はまた赴任先へと戻っていった。
家族はたぶん一個の有機体のようなもので、互いの器官を切り離すことの困難は、今のぼくにとって呪いに等しいもののように感じられた。
ひとつの器官が悪性の病に蝕まれれば、それが他に転移することは避けられず、しかしどれかを切除しようものなら、全身のあらゆる機能が維持しえなくなってしまう。
この状況は、ぼくの成績の低下によって一時的に生じた、風邪のようなものだろうか?
明らかにそうではなかった。
成績の良し悪しにかかわらず、ぼくの没落は、ぼく自身の遺伝子にあらかじめ刻み込まれたプログラムに由来する正当な結果であるように思えるのだった。
勉強ができなくては始まらないという強迫観念の泥濘に、ぼくも母もどっぷりはまり込んでいた。
ぼくは沼から出る方法を探ってもがき、母はぼくにその沼の中で生きることを求め、互いが自身の思惑を強めるほどに、ぼくらはより深いところへと沈んでいくのだった。
夏休みに入ってからも、ぼくはなるべく家に留まることを避けるようにした。
エアコンのスイッチを入れることに罪悪感があった。
成績を落としている自分が、エアコンの涼風にはふさわしくない存在であるように思い、それが自分で作り出した母の幻影に由来する観念であることは明らかなのだが、むしろそうであるからこそ、スイッチを決して押してやらない気持ちが強くなるのだった。
母の呪いは厄介な宗教よりもタチが悪いように思えた。
一日に一つの駅を散策することが、いつのまにか夏休みの習慣になった。
街の表情を駅の名前と結びつけていく作業は、世界とのつながりを回復するうえで、なにかしらの意味をもたらすように思えたからだ。
[連載小説]像に溺れる
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