もう何十分も、車内には子どもの泣き声が響き続けている。
隣から鼓膜をビリビリ突き刺してくる声を、けれども私は現実のものと思いたくなくて、未だにそっちを見ることができていない。
三人ともダンマリを決め込み、とはいえフタをし続けるにはあまりに存在が重すぎる。
ミラー越しにヨネザワの不機嫌そうな目元が見えて、一瞬目が合い、すぐさま逸らされてしまった。
私が責めるような目をしていたのかもしれない。
「どうすんの」
口を開いたのはカイドリだった。
それは私が聞いた彼の言葉のなかで、四つめくらいの単語だった。
ヨネザワは観念したように、わざとらしい溜め息で肩を落とし、カイドリの方を向いて「しばらく預かる」と言った。
思わず「やっぱ誘拐じゃん」と口をついて出てくる。
今さらすぎるツッコミだったが、カイドリが作ったテンポに乗っかろうと思った。
「うるせぇな、事情があんだよ」
「誘拐が許される事情ってどんなだよ」
「過ぎた話はしないっつってんだろ。義理は通してんだよ」
「なんだよ義理って」
ヨネザワは答えなかった。
車の操作が乱暴になり、頭がぐわんぐわん揺すられる。
せっかくの新しい車が台無しだった。
泣き声のボリュームがまた上がる。
信号で止まったところで、後ろの席からカイドリが立ち上がり、場所を変わるよう訴えてくる。
カイドリは二列目に座ると、チャイルドシートを覗き込み、プルルルルル、と唇を震わせる。
まったく甲斐なく、けれども変顔やらいないいないばぁやら、ともかく手を替え品を替えあやし続け、最終的にカイドリが「ポポポポ」と狂ったように高音を発したところで、ゲヘゲへ笑い声が聞こえはじめる。
特技、というには苦戦しすぎていたけれど、カイドリがそういう苦戦を進んで引き受けるタイプだというのが意外だった。
できれば他人事でありつづけてほしいと思っていた自分は何なのだろう。
いまになってもなお、その子の顔を見てしまったら、誘拐への加担を受け入れたことになりそうで気が引ける。
私がおかしいのだろうか?
泣いている子どもに無視を決め込むことがおかしいのか、というかそもそも、誘拐を察していたのに止めなかったことがおかしいのか、わけがわからなくなってきた。
「返すんだよね?」
三列目から運転席まで届かせようと張った声は、縋るようなダサいトーンになった。
「二週間預かる。そっからどうなるかは知らん」
「どういうことだよ」
「これからの展開次第ってことだよ」
「わけわかんね」
ヨネザワは聞こえないフリをしていた。
親から虐待でもされているのだろうか。
それなら保育園からちゃんと、そういう窓口に引き継がれるものなんじゃないのか。
いやむしろ、そういう施設の人間のフリをした?
それはイヤにしっくりくる考え方で、私はなんだかゲンナリして考えるのをやめた。
家で出迎えたマツシマは、「あらかわいい」と顔をほころばせ、すぐにヨネザワから子を受け取った。
「怖かったねぇ、大丈夫、大丈夫」
そう言って、ナチュラルに子の背中をトントン叩いているマツシマが一番おそろしく思える。
子はウンともスンとも言わず、じっとマツシマの顔を眺めている。
どこかの店の看板猫みたいに、心を開かないまま愛嬌だけ示す。
そのつぶらな瞳は、自分の運命など理解できているはずもない。
それなのに健気にも、赤子としての習性は、どんな運命に対しても従順に適応しようとしている。
床に置かれるとその子はぺたんと座り、「あちゃ、あちゃ」と何かを指示しているらしい声をあげるが、それが何を指しているのか見当がつかない。
「お乳はまだ飲むのかしら」といって、マツシマがミルクの準備をしはじめる。
あちゃ、あちゃと繰り返すその子と、はじめて目が合った。
何かを求められている気がして、目についたテレビのリモコンを渡してみる。
しげしげと眺め、両手でボタンを押している。
「というか、名前は?」
ヨネザワはこっちに目を合わせないまま、「コーウ。光が有る、でコーウ」と答えた。
「コーウ」と口に出すと、コーウはこちらに振り向き、また「あちゃ、あちゃ」と何かを求めた。
[連載小説]像に溺れる
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