いかにもアイアンクローの得意そうな筋ばった五本指が目の前に伸びてきて、だけど幸い、手のひらはくるりと上に向けられた。
監獄みたいな脅迫的な表情は一変し、その手はリスか何かを守ろうとする野獣の手になり、ギャップのせいか私はそれをずっと待っていたように思ったのだった。
だから私は、それ以来ヨネザワの本体が手なのだと思っている。
午前5時58分。アラームの鳴る2分前に目が覚める。
ここに来て1週間も経たないうちに、体が起きる時間を覚えていた。
キッチンではマツシマが、何かを混ぜたり焼いたりして小気味のいい音をたてている。
おはよう、といちいち口に出すことを、特段面倒に思わなくなっている。
サバと納豆と卵焼き、ワカメの味噌汁に白米がトントン並べられる。
当たり前の食事が普通に出てくることに対しては、未だに慣れない感じがする。
健康になることに対して、私のなかに変なヒネクレがあるのかもしれない。
テーブルに座るヨネザワの手は一方でコーヒーカップを掴み、リング状の取っ手にはかろうじて指が一本かかっているだけなのだが、もう一方ではおかしな位置で折り曲げられ苦悶している新聞を逃すまいとがっしり握るものだから、シワだらけの新聞は今にも息絶えそうで、ともかく、ヨネザワは力を制御できない巨人に似ている。
そのくせ表情には知性と偏屈が滲んでいて、アンバランスでキモいのだが、何やら薄茶けたレンズ越しに新聞を睨んだまま、怪獣の寝言みたいな低いうなり声をあげ「おかしな時代になったもんだ」とか独りごちる。
こちらの反応を待っているようでもあるのだけれど、腰の抜けた「へ」みたいな眉毛がキモいので黙って味噌汁をすする。
あらかた食べ終わったところに、カイドリが起きてくる。
おはようと声をかけると、こくりと小さく頭を下げる。
カイドリはあまり言葉を発さない。
誰もそれについて説明しないが、耳があまり聞こえていないようだった。
カイドリは毎朝、すでに出発する準備を終えてからリビングに出てくる。
繊細そうなキノコ頭にはいつも寝癖ひとつない。
どうせ後で帽子を被ることになるのだが、毎朝いちいち直しているのか、それともそもそも寝癖がつかない髪質なのか、私にはまだわからない。
カイドリが朝食を済ませる間、私は出かける準備をする。
とはいえマスクにメガネだから、歯を磨いて着替えるくらいのものだった。
準備を終えるとカイドリは大抵食べ終わっていて、なんだか時間の流れが捻れたような感覚になる。
実際カイドリがどういう食べ方をしているのか観察したことはなく、これも今のところ謎に包まれている。
出かける私たちに向かって、マツシマは「いってらっしゃい」と声をかける。
ヨネザワは団地の駐車場で私たちを待ちながらタバコを吸っている。
1BOXの取って付けたようなベンチシートにカイドリと二人で腰を掛け、運転席に乗り込んできたヨネザワに「今日は?」と聞いてみる。
シートからはみ出したタンクトップの丸い肩ごしに、「行ってからよ、るせぇなぁ」と闇金業者みたいな巻き舌で返ってくる。
重機みたいな腕がハンドルに伸び、握る手だけが今日の行き先を知っている。
高速で2時間ほど、クッション皆無のゴツゴツに耐える。
ケツがキツいのでせめて時間だけでも教えてほしい。
誰も喋らず、ラジオもないが、たぶん各々勝手なことを考えているから特段空虚でもない。
インターを降りると、何を作っているのかわからない、けれども規模も形もさまざまな工場が並ぶ。
少し進むと一面畑だらけになって、やっぱりこれも何を作っているのかわからない。
それらはもしかしたら私の指に触れていたり、あるいは胃の中に入っていたりするのかもしれず、私は私が何でできているのか、実際のところ何も知らないでいる。
[連載小説]像に溺れる
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