#78 無援――像に溺れる

温泉街は想像していたよりも整然としていて、区画整理から間もないような印象を与えた。
新しい道路に中規模のショッピングモールと古い旅館が並び、何やら双方とも居心地が悪そうに見える。

日帰り入浴の看板がいくつか視界に入り、ぼくはそのうちもっとも寂れた風貌の小屋に入った。
番台には誰もおらず、見回すと内部は清潔に手入れされていて、木板のニスも輝きを失っていない。
しばらく立ち尽くしていると、女湯の方から清掃用具を手にした老婆が現れ、ぼくを見るなり焦って番台に向かってくる。

「すみませんね、どうも、この時間はあんまり人も来ませんもんで」
ここに来てはじめて言葉をかけられ、ぼくは自分の身体を思い出す。
誰かの意識に映されていないと、人はいつのまにか思念体のようになってしまう。

「すみません、タオルも借りたいのですが」
「あぁ、はいはい。500円と、200円で、700円ね。あら、ずいぶん若いのね」
ぼくがぼくとして知覚されている。
タオルを受け取り、なかば逃げるように脱衣所に向かった。

4、5人が限度の狭い檜風呂だったけれども、客はほかにおらず、かえってちょうどいい大きさに感じられた。
血管が広がり、身体が流動化していくような感覚が心地よかった。
普段から肉体を疲労させる習慣があれば、今のように思い悩むことも減るのかもしれない。

突然脱衣所の扉が開き、視界に映るものの輪郭が途端にくっきり浮かぶ。
60代くらいだろうか、小熊のような肉付きの禿げた男が、そのまま勢いよく浴槽に入ってきた。
目が合って視線を逸らすが、向こうはじっとこちらを見ている気がする。

「がきぁ、おい、いい身分なもんだ」
滑舌がひどく悪く、言葉の意味より先に否定的な感情が伝わってくる。
ぼくの何が気に食わないのか――男の目に映る自分の姿を想像し、覚悟のない家出を見透かされているのではないかと思う。
身を浸している液体が、目の粗い砂になったみたいに肌になじまず、不快な圧をかけてくる。
耐えかねて、ぼくはそそくさとその場を後にした。

いやな感触を振り払おうと周辺を散策してみるが、ざらついたまなざしが脳裏に焼き付いてしまっている。
コンビニに入り、スポーツドリンクをレジまで持っていったところで、ポケットに財布が入っていないことに気づいた。
慌てて探すが、どこにも見つからない。

盗まれた?
全身の脱力感に見舞われながら、目の前の飲み物すら買えない現実を受け入れることができない。
怪訝なまなざしを向けてくる店員に、要領を得ない言い訳をまくしたて、しくじった強盗みたいに逃げ出した。

盗まれたとしたら、さっきの脱衣所しか考えられない。
あの男だろうか。
しかし、盗んでからわざわざ風呂に入るだろうか?
怒りの対象が定まらず、それ自体が苛立ちの種になる。

風呂屋に戻るが、男の姿はもうなかった。
番台の老婆に尋ねると、あのとき他に入っていたのはその男だけだという。
財布を盗まれたと伝えると、老婆は表情を曇らせ、遠回しにぼくの自己責任を訴えてきた。
孤立無援の感覚に横隔膜が敏感に反応し、身体のふるえが涙を押し上げてくる。
泣いてはダメだ、一人でどうにかしなければ――警察に頼った時点でこの旅は終わり、そうなればぼくはずっと、本当の意味で自立することができなくなるように思えた。

幸い、コインロッカーの鍵は盗まれていない。
スマホがあれば、まだ何かしら手立てが見つかるかもしれない。
しかし、吹けば飛びそうな精神状態で、ひとり夜道を歩き仰せるだろうか。
道を行く車に乗って行けたら――窮乏はおのずと身体を動かし、ぼくは道行く車に向かって手を挙げ、自身の存在をアピールした。

しかし、車が通り過ぎていくたび、必死になっている自分の存在の軽さがまざまざと意識される。
たとえぼくの生死がかかっていても、他人の注意は引けないように思われた。

どのくらい手を挙げ続けただろうか、とうとう1台、黒い軽自動車がぼくの前に止まった。
車内から、オーディオの低音がわずかに漏れてきている。
おそるおそる中を覗くと、40代くらいだろうか、作業着に明るい茶髪の女性が中に入るよう促してくる。
後部座席には空のチャイルドシートや荷物が置かれていたので、助手席のドアを開けると、どぎついココナッツのにおいが立ちこめてきた。
ボリューム大きめの日本語ラップと相まって、小さな異空間の様相を呈している。

「はじめて見たわ、ヒッチハイク。つーか顔真っ青じゃん。逆にビビるって。何? 一人旅? 迷った?」
ぼくを濁りのない目で見つめたまま、女性は矢継ぎ早に質問を重ねた。
言葉は若いけれども、話すトーンからは不思議と、肝の据わった印象を受けた。

「家出してきたんですけど、財布落として……」
「は? ヤバいじゃん。そんなことある? 何、神様に嫌われるようなことしたの? てか発進するね。どこ行くの?」
繰り返される疑問形は、なぜだかぼくになつかしい安堵の感覚を抱かせた。
目的地を答えると、女性は「オッケー」とアクセルをふかす。
操作が大雑把なのか、車の特性なのか、車体がやたらと大きく揺れる。


[連載小説]像に溺れる

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