当たり前のように「受験」を捉えてしまいがちな昨今、ちょっと立ち止まって多様な生き方の可能性、様々な選択肢がある中で「受験」という道を選んだ意味を考えたい。
そんな思いから始動した”Educational Lounge×Career Compass”では、様々な業界でチャレンジを続けている方に、これまでの人生を振り返っていただきます。
第4回は、故郷沖縄でフリーランスとして活動している、上原ノーマン浩さんにこれまでの人生、2019年11月に立ち上げた「首里城復元支援プロジェクト『BORN AGAIN』Tシャツ」プロジェクトについてお聞きしました。
1990年9月30日生まれ。沖縄県出身。
興南高校在学中に沖縄県高等学校総合体育大会 駅伝大会 6区 区間 1位、沖縄県陸上競技協会男子第5回タイムスロードレース10000m 1位、第21回海邦国体記念記録大会 1500m・5000m 1位、沖縄県高等学校総合体育大会1500m 1位、沖縄県高等学校総合体育大会駅伝大会優勝・7区 区間1位、全国大会では(7区沖縄県記録)など、陸上競技で活躍を見せた後に亜細亜大学法律学部へ進学。卒業時まで所属していた陸上競技部は東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)に出場。個人としても日本学生陸上競技個人選手権大会 1500m 全国入賞8位、沖縄県民体育大会 1500m 1位などの実績を収める。大学卒業後はカナダでのワーキングホリデーを経て、大手不動産ディベロッパーに入社。メインの戸建て事業部にて営業売上、達成率2冠、全国1位、チーム全国1位にも貢献。その後、主任昇格、チームマネージャーへ昇進。
退職後、数社を経て現在は故郷の沖縄県でフリーランスとして活動。マリンスポーツやバー、モデル活動を行っている。
「首里城復元支援プロジェクト「BORN AGAIN」Tシャツ」プロジェクト
――まずは、全国的にも注目を集めた「首里城復元支援プロジェクト『BORN AGAIN』Tシャツ」プロジェクトについて聞かせていただけますか?
※編注:2019年10月31日に首里城で発生した火災により、正殿を含む建物9棟が焼損した。翌11月、上原さんと金城茜さんを中心に沖縄の若者が企画した首里城復興祈念チャリティーTシャツ「首里城復元支援プロジェクト『BORN AGAIN』Tシャツ」プロジェクトが立ち上がり、全国に拡散された。このプロジェクトを取り上げた琉球新報(2019年11月9日)の記事はこちら。
▼「首里城復元支援プロジェクト『BORN AGAIN』Tシャツ」を取り上げた琉球新報(2019年11月9日)
上原さん(以下「上原」):沖縄に帰ってきてまだ間もない時に、首里城の火災が起きました。
やっぱり沖縄が大好きな気持ちはずっとあったので、何かできないか妻ともいろいろ話していたのですが、ご縁もあり周りのTシャツブランド関係の知り合いや地元のデザイナーが賛同し無償で動いてくれるなど、いろいろなことが重なって、すぐプロジェクトを始動することができました。
ただ、これを世間に知ってもらうためには自分の発信力だけでは限界があった為、メディアや影響力のある方の力をお借りしようと思ったんです。
それもあり、SNSで沖縄出身の著名人の方たちにDMを送りアプローチしました。
その際に黒木メイサさんからお返事をいただき、PRに協力してくださったので、そのタイミングでまた新聞社に連絡して取材してもらい、全国ニュースに繋がったという感じです。
あのときは、やっぱり「沖縄のために」というか、血と魂が騒いで居ても立ってもいられなかったんです。でも、しばらく心に寂しい気持ちを抱えるなら、少しでも良くする為に本気で動こうと思いました。
ご縁があり「自分たちも何かしなくては」という思いを共有できるメンバーが身近にいたので、すぐに動き始められてラッキーでした。
このプロジェクトを通して、沖縄だけではなく海外や県外の方々、それに「首里城には行ったことないけど」という方も含め海外、県外の方々に購入してくださって、首里城、沖縄のことを思ってくれている方々がこんなにも沢山いてくださるのだと感じられてとても嬉しかったです。
▼首里城復興と貴重な美術工芸品等の収集・復元・保存に向けた首里城公園「首里城基金」
「箱根駅伝で優勝した大学でやれるのはチャンスだと思った」
――中高生時代から振り返っていただこうと思います。いつから陸上競技を始められたのですか?上原:
本格的に始めたのは高校からですね。
中学校の頃に、市別の駅伝で那覇市の代表で選ばれたときに興南高校から声をかけてもらいました。そこから陸上競技を本格的にスタートした感じです。
高校では修学旅行も行けず、ずっと練習をしていましたね。(笑)
なのでもう高校の思い出といえばほとんど陸上しかないですね。朝練をし授業。学校が終わり夕方5時ぐらいから夜8時ぐらいまでは午後練。そんな日々でした。夏休みや冬休みはずっと合宿でしたね。
――亜細亜大学に進学した決め手は何だったのですか?
上原:高校2年生のとき、自分の成績が出始めたちょうどその時期に亜細亜大学が沖縄合宿に来ていて、そこで一緒に記録会をさせてもらって、スカウトしていただきました。
結局、進学先を選ぶ時には他からのアプローチも複数ありましたが、高2の時から誘っていただいていたこと、その年に亜細亜大学が箱根駅伝で優勝して、この環境でやれるのはチャンスだと思ったことから、進学先を亜細亜大学に決めました。