
お疲れ様でございます。
新年1発目、第16回目の「京都の歩き方」は、「【特集】歴史の舞台」と題しまして、京都にあるさまざまな歴史的事件の“現場”を巡ってまいりたいと思います。
今回選んだのは、応仁の乱勃発の地・聚楽第・寺田屋・無鄰菴です。
それでは一つ目、「応仁の乱」の現場から見てまいりましょう。
目次
応仁の乱の「現場」
1467年、畠山・斯波家の家督相続争い、細川・山名氏の覇権争いに将軍継嗣争いが加わった戦いです。
畠山・斯波家の家督相続争い
家督相続争いというのは、カンタンに言うと一家のトップを誰にするかという争い。
当時の相続形態は嫡子単独相続といいまして、相続の際、一家の財産を兄弟で分割して相続するのではなく、ある一人の人物がその家の代表的な財産を一括して相続する形をとっていました。
ですから、誰が相続人になるかというのが非常に大事になってくるわけですね。
これを争うのが家督相続争いです。
細川・山名氏の覇権争いと将軍継嗣争い
「将軍継嗣」というのはあとつぎのこと。
簡単にいうと「次の将軍を誰にするか」ということを争うということです。
嘉吉の乱以降、幕府・将軍の権威が失墜していくなかで守護家の家督相続争い、細川・山名の実力者の争い、将軍のあとつぎを巡る争いが東軍・西軍の2派閥を形成したのです。
応仁の乱の対立構図については家系図でみるとわかりやすいです。
争いの構図は家系図のヨコかナナメ、つまり兄弟間かおじ・おい間での争いがメインになっていると覚えておくと便利でしょう。
他の戦い(壬申の乱や保元の乱など)でも使える視点ですので、大学受験生のみなさんはぜひとも家系図を見ながら勉強してみてください!
▼応仁の乱についてはコチラ
応仁の乱が始まった「現場」
さて、この応仁の乱は「どこ」から始まったのでしょうか。
「現場」は京都、上京区上御霊竪町にあります上御霊神社の門前だとされています。
(1467=文正2→応仁元)御霊社(現在の上御霊神社)で畠山政長と義就の合戦が始まり、これが応仁の乱に発展したのです。
現場には「応仁の乱勃発地」と書かれた標柱もありますので是非ともチェックしてみて下さい。
ちなみにこの上御霊神社、平安時代に早良親王(「崇道天皇」と呼称)をこの地に祭ったのがはじめとされ、橘逸勢、吉備真備などをも祭神とする神社です。
厄除けの神社としても有名ですので、こちらにもぜひお立ち寄りくださいね。
★アクセス
地下鉄烏丸線「鞍馬口」駅下車徒歩3分
市バス「出雲路俵町」下車徒歩5分
聚楽第の「現場」

「じゅらくだい」「じゅらくてい」と読みます。
この聚楽第は秀吉の京都における居館で、堀、曲輪があったことから平城の作りであり、城郭風の建物であったといわれています。
関連年表を見てみましょう。
(1588)後陽成天皇の行幸→天皇、関白である秀吉に対して諸大名が忠誠を誓う
(1591)秀吉、秀次に関白職とともに聚楽第も譲る
(1593)秀頼うまれる
(1595)秀次失脚にともない聚楽第破却
なるほど、聚楽第では後陽成天皇を招いたり、そこで天皇・秀吉に対して諸大名に対して忠誠を誓わせたり、なかなかの行事を行っています。そんな聚楽第ですが、現在は破却されてなくなっています。
1591年、秀吉は甥である秀次に関白職とともに聚楽第も相続します。
秀吉には当時子がなく(鶴松は夭折)、秀次にその地位や財産を相続することとしたのです。
しかし1593年、秀吉は実子である秀頼を授かります。
秀吉は秀次ではなく実子秀頼に相続をと考え、次第に秀次と不和となり、秀次を失脚させ聚楽第も破却してしまうのでした。
聚楽第が破却されたいま、全くその面影をしのぶことができないわけではありません。
聚楽第の遺構とされているものがいくつかありまして、代表的なものは大徳寺唐門でございます。
▼聚楽第・大徳寺唐門についてはコチラ
聚楽第跡の石碑
また、聚楽第の「現場」としては聚楽第跡の石碑をご紹介します。
上京区裏門通中立売交差点にひっそりとたたずむ石碑です。
また周辺にはこの他に南外濠跡や鵲橋旧跡などの石碑もありますので、散策してみてはいかがでしょうか。
寺田屋事件の「現場」
日本史上、「寺田屋事件(騒動/遭難)」とされるものには次の二つがあります。
・1866年に起こった坂本龍馬襲撃事件
(1862)薩摩藩士粛正事件
島津久光が倒幕挙兵を策する急進派、有馬新七らを寺田屋にて使者により斬殺させた事件。
島津久光は文久の改革を推進するため、勅使大原重徳を擁して江戸に向かっていた。
▼寺田屋事件や文久の改革についてはコチラ
(1866)坂本龍馬襲撃事件
坂本龍馬が(伏見奉行林肥後守忠交に遣わされた)幕吏に襲撃された事件。
薩長同盟のとりまとめのあとであり、この襲撃の際にのちの妻であるお龍の機転により難を逃れたというエピソードが有名。
どちらも伏見区南浜町にあります寺田屋という旅館で起きたできごとです。
現在にもこの地には「寺田屋」がありますが、当時の建物は鳥羽伏見の戦いで焼けているため、その後再建されたものであると確認されています。
しかし、隣接する庭園には龍馬像や薩摩藩士の石碑などもあり、資料館も楽しめます。
★アクセス
京阪電鉄本線「中書島」駅徒歩5分
*京阪宇治線に乗り換える駅でもありますので、次回取り上げる平等院へ向かう道すがら立ち寄ってもいいですね!
無鄰菴の「現場」
無鄰菴とは、山県有朋の別邸です。
しかし、同じ名前の山県の別邸は実は長州に1つ、京都に2つありまして……。
今日取り上げるのは一番有名な京都の第三の無鄰菴(京都市左京区南禅寺草川町)です。
こちら、庭園は七代目小川治兵衛により作庭されたもので、琵琶湖疎水の水を防火用水という名目で引き込んだものです。
以前、「琵琶湖疎水」の特集でチラっとだけ、ご紹介しましたね(笑)
▼「特集・琵琶湖疎水」の記事はコチラ
無鄰菴会議の「現場」
ここは、1903年4月21日に行われたある重要な会議の舞台となった場所です。
この無鄰菴の洋館、2階で行われた会議の出席者は山県有朋(元老)、伊藤博文(立憲政友会総裁)、桂太郎(首相)、小村寿太郎(外相)。
なかなかのメンバーですよね。
のちに無鄰菴会議と呼ばれることとなるこの会議、何が話し合われたのでしょうか。
我々は現代人ですから、1903年が日露戦争開戦の1年前であることを知っています。
そう、1903年の無鄰菴会議とはロシアに対する外交方針が話し合われたのでした。
この会議が行われた部屋、現在も残っております!
さすがになかに入ることは通常できませんが、ロープの外からのぞき込むことは可能です。
是非とも、無鄰菴会議の“現場”の「空気」を感じてください。
ちなみに、無鄰菴の表記には以下の3種類ありまして、本記事では①を採用しています。
①「無鄰菴」:母屋の扁額にある表記で京都市が使用
②「無鄰庵」:1951(昭和26)年6月9日、国の名勝指定時に使用
③「無隣庵」:常用字体を使用したもの、新聞記事などで使用
★アクセス 地下鉄東西線「蹴上」駅下車徒歩7分
市バス「南禅寺・美術館・平安神宮前」下車徒歩10分
▼「【特集】歴史の舞台」についての解説動画はコチラから!
『佐京由悠の中学生からの京都の歩き方~修学旅行を100倍楽しむために~』
〔画像:京都フリー写真素材〕

日本史科予備校講師。学びエイド認定鉄人講師。
首都圏の予備校を中心に出講し、その講義は「するする頭に入ってくる」「勉強しなきゃと意識が変わる」「出てきた土地に興味が湧く」と受験生に高い支持を得ている。
授業のコンセプトは「大学に行くのが楽しみになる授業」。
科目の内容はもちろんのこと、丸暗記のみに頼らない本番での知識の導き方・解き方、現場に足を運んで得た知見などをもとに大学に行っても役に立つ「受験科目」を展開。
受験生におくる言葉は「一生勉強、何のこれしき。」
「佐京由悠の京都の歩き方」
第1回 清水寺編
第2回 六波羅蜜寺編
第3回 八坂神社編
第4回 智積院編
第5回 三十三間堂編
第6回 【特集】豊臣秀吉ゆかりの地
第7回 南禅寺編
第8回 【特集】琵琶湖疏水~初めて電車を走らせた京都の電化事業~
第9回 平安神宮編
第10回 金閣寺編
第11回 龍安寺編
第12回 仁和寺編
第13回 銀閣寺編
第14回 広隆寺編
第15回 【特集】嵐山周辺
第16回 【特集】歴史の舞台~応仁の乱・聚楽第・寺田屋・無鄰菴~