「気づいたんだけどさ」
ポテトを齧りながら、ヤナガワサンはそう切り出した。
午後4時前のファミレスは閑散としており、ぼくらの他には大学生と思しきカップルと、カウンター席でビールを飲む老人しかいない。
「家、出ようとしてもアテがないじゃん。なぁ?」
ヤナガワサンの言葉に反応したカップルの女性が、つまらなそうにこちらを一瞥した。
家出を夢想する少女はその視線に気づかないまま、何かを確信したようにぼくの目を見ている。
「そんでさ、気づいた。逆なんじゃねって。家出るアテがあったら、そもそも家出たいと思わなくねって」
今度は誰も、こちらに関心を向けてこなかった。
話を聞いているぼくにも、彼女が何を言いたいのかよくわからない。
「居場所があれば、家出とかせずに済むってこと?」
ヤナガワサンはカウンターの方に視線をやりながら、コーラを一口飲んで答えた。
「ちょっと違うかな。そもそも、どこにも行けないように出来てるつーか」
カウンターの老人のもとに、枝豆と湯豆腐が運ばれてくる。
もとからそこにあったみたいに、老人は枝豆に手を伸ばした。
「環境は変えられないってこと?」
「そうなるんかな。まぁそれでいいや。つーか、お前はなんか、抜け出したいとかないの?」
問いを向けられると同時に、店内の意識がぼくに集中してくる感じがした。
「ぼくは友達も少ないし……学校とか塾は、先生には認められているのかもしれないけど、それはぼく自身を見ているわけじゃない。親もあんなだし……でも、家を出たいみたいなのはないかな」
「評価されてるから?」
「そう、なのかな。評価の基準に疑問はあるけど……それも今の評価がなくなる不安から来てるのかもしれないし」
「何にせよ、お前には『しるし』があるんだよ。証明書を発行してくれる窓口っつーか。結局そこじゃね、と思うんだよ。いてもいい証明、みたいな」
確かに、結局のところそれが問題なのかもしれない。
その場所に自分が存在してもいいことを、証立てる何か。
それは成績でもいいし、何かステータスのある肩書きでもいいし、仲間からの評価でもいい。
なにやら賑やかな声が聞こえて目を向けると、50代くらいの女性4人組が入店してきている。
皆テニスのラケットケースを抱えており、席に着くなり話はネットプレーの難しさからコーチのプライベート、自身のペットと目まぐるしく変わっていく。
しばらくして、カウンターの老人は不快そうな表情を浮かべ、ビールを残したまま席を立ってしまった。
「いてもいい証明って、言葉とか数字とかじゃなくて、場所のことなのかな」
ぼくの問いかけに、ヤナガワサンは指につまんだポテトをぷらぷら動かしながら答えた。
「よくわからんけど、窓口だよ。お前の場合なら、点数だけあっても意味ないじゃん。それがスゲぇってならないとさ」
自分の立ち位置を確認できる場――そこで思い浮かんだのは、最近塾の現代文で読んだテキストだった。
人間集団の最小単位は家族で、人はそこからローカルな共同体へと活動の場を移し、さらに広い社会や国家といったレベルで行動し、ポジションを確立していくことになる。
ところがグローバル化やインターネットの発達によって、中間段階であるローカルな共同体は衰退し、家庭を離れた場所において結ばれていたはずの現実的な人間関係が希薄になった。
結果として、コミュニケーションの取り方がわからず、孤独感に悩まされている人が増えている……
「そういうのがないから、どこにも行けない感じになるんだよ」
テニスの4人組を眺めながら、ヤナガワサンは呟いた。
たしかにぼくらは行き詰まっていた。
目には見えない、けれども強固な膜が、自分の表面をつねに覆っている気がする。
「そういうの」があれば、この膜は溶けてなくなってくれるのだろうか。
あの評論では――高度経済成長と、学生運動が「そういうの」を下支えする社会情勢として描かれていた。
企業のなかでの、あるいは社会運動のなかでの存在意義。
しかし、運動の失敗と、景気の後退とともに、「そういうの」が信じられなくなってしまった、という流れだった。
そうだ、そのような閉塞感のなかで登場してきたムードとして指摘されていたのが、宗教への傾倒だった。
しかし、宗教に人々の存在意義を承認する機能があるのなら、なぜヤナガワサンはそれを忌避しているのだろう。
[連載小説]像に溺れる
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