#66 共鳴――像に溺れる

ヤナガワサンとその母親には、血縁関係を想像させるものがないように思えた。
ヤナガワサンの鋭い目つきとは対照的に、母親の方はどこか疲れたような、焦点が定まっていないような印象を与える。

「ごめんなさいね、この子が」
頭上をさまようような甲高い声が、変に耳に残る。
「自転車には乗らないようにしていたんですけど」
弱々しい、しかし意図のわからない弁明に、空間が歪むような感覚があった。
その背後で微動だにしないスーツの男が、かえって不気味に感じられる。

ともあれヤナガワサンの保護者の登場で、場は収束していくはずだった。
「いやいや、何でもなくてよかったです」
ねじれた空気を矯正するように、警官が話をまとめにかかる。
その声で弛緩した空気はしかし、ぼくの母の言葉ですぐさま凍りついてしまった。

「ごめんなさいで済む話じゃないでしょう。警察にまでお世話になって」
止めなければならない、と思った。
けれども喉が内側から石化してしまったみたいに、何の言葉も発することができない。
それはほとんど呪いだった。

ぼくは母を正すことができない。
それは善悪の手前で、ぼくの肉に深く刻まれている呪縛だった。

場は静まりかえり、誰一人言葉を返そうとしない。
皆に目を背けられながら、しかし母は怯むことがなかった。

「お子さん、留年してるんですってね。今もまともに学校に来てないみたいじゃない。タバコも吸ってるっていうし、どういう教育してるんですか」

粘着質の言葉が、その毒性を隠すことなくヤナガワサンたちに向けられていた。
ヤナガワサンの母の目が、尋常でないほど泳いでいて、ぼくは冷たくざらついたものを胸のうちに感じる。
ぼくがいることで、母が他人を攻撃する。
ぼくの存在についてまわる罪、ヤナガワサンが言うところの、業。
それなのに、母の言葉はぼくを当事者の位置から追いやって、椅子も足場もない、生ぬるいゼリー状の空間に閉じ込める。

「お子さん、というかあなたですけど、どんな人なのかみんな知っていますよ。男をとっかえひっかえして、変な宗教に染まって、ろくに子どもに目を向けていないって。かわいそうだと思わないの」

心臓を素手で締め付けられていくようだった。
保護者会か何かで共有される、発酵したような情報と、内側から腐敗臭の漏れ出している常識。
そういうものを盾にして、ぼくの母は他人の教育を断罪している。
けれどもぼく自身が、そのようなもので構成された存在にほかならないのだ。

と、狼狽したようなヤナガワサンの母の背後から、いきなり男が前に出て、ぬっとぼくの顔を覗き込んできた。
穴のような黒目に、罪悪感がまるごと吸い込まれてしまいそうな感覚がある。

「君は不幸だね」
低く囁かれたその言葉に、そうだ、ぼくは不幸だったのだと――思考の手前で、不幸の二文字が、その音声が、脳に刷り込まれていく感覚があった。

「ちょっと、うちの子に近寄らないで」
母がぼくと男の間に割って入る。
「何かしたら訴えますから」
そう言われた男は、一歩退いて大きな溜め息をついた。
そうして、突然人が変わったように、滔々と語り出したのだった。

「あぁ、あなたの心は重たく大きな闇に囚われてしまっている。多様な光に対して開かれている、可能性に満ちた存在を、一元的な価値のもとでしか測ることができていない。あぁ。子どもの将来についての不安に駆られ、窮屈な生を強いる親がいかに多いことか。しかもそれは、もっぱら金銭をめぐる不安だ。矮小なるかな。いかに安定して、高い稼ぎを得られるか。そればかりだ。そういう教育は結局、自身の所有物とステータスを拡大しようと欲するばかりのエゴイストを育てるだけだ」

酔っているみたいに、目の焦点が定まっていない。
それらの言葉は、誰に向けられたわけでもなく、中空をさまよい、異次元からのメッセージのように聞こえる。
しかしそこには、意識の奥から共鳴を引き出そうとするような、奇妙な響きがあった。
たしかに男の言葉によって、ぼくは自分の将来像を、卑小なプライドと地位を守ることに腐心するエリートとしてイメージしていたのだった。
自己嫌悪の根っこにあったそのイメージは、いまや外部からもその醜さを暴露され、完全に放棄すべき像となっていた。

一方で、母はそれまでの興奮から覚めたみたいに、冷たく、動じない目でその男を眺めている。
男の言葉が終わると、ヤナガワサンに向かって憐れむような目線を送った。

「あなた、大変ね。こんな口ばかりの男に父親面されて。こんなのに絆されるのが母親で。同情するわ。でも、この子にはもう近づかないで」

ずっと俯いていたヤナガワサンが、そのときはじめて顔を上げ――ぼくの方に視線を向けた。
このとき彼女がどんな顔をしていたのか、ぼくは思い出すことができない。
反射的に、ぼくはそこから目を背けてしまっていたから。

「行くわよ」
交番を後にする母を追うぼくに、「いつでも待っているよ」と呼びかける男の声があった。


[連載小説]像に溺れる

第1
第2
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 ANOTHER STORY —ヤナガワ—
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