警察から連絡があったことを告げる母の声には、苛立ちに加え、あまり耳にしたことのない焦りのトーンが混じっていた。
警察という単語とともに、焦りはぼくの脳にも伝染してくる。
「え、なんで」
「自転車。盗まれてないですかって。家にないけど、今乗ってるんじゃないの?」
なぜ家に自転車のことで連絡が?
呆けた頭に、突然鮮明なイメージが飛び込んでくる。
ヤナガワサンが、警察に呼び止められたのだ。
「いや、いま、ちょうど友達に貸してる」
声に浮かんだ狼狽を、母が見逃すはずがなかった。
「どういうこと? 変なことに巻き込まれてるんじゃないの? とにかく、今向かってるから。自転車も、乗ってた人も、○○っていう交番にいるって」
喉から水分が一気に失われていく。
ぼくのせいで、ヤナガワサンがあらぬ疑いをかけられている。
そもそも貸していなければ。
いや、まっすぐ帰宅していれば、警察からの電話に対処できたかもしれない。
時間を巻き戻すことばかりに思考が囚われ、何ひとつ頭が働かない。
「今どこにいるの? 交番まで来れる?」
肯定するような音をかろうじて発し、ぼくは電話を切った。
交番に着くと、すでに中に母の姿が見えた。
険しい表情で、一点を見下ろしている。
気管のあたりに異物感が生じて、呼吸がうまくできなくなる。
磨りガラスで窓の下半分は見えないが、その視線の先にはヤナガワサンがいるに違いなかった。
扉を開くと、若い警官と母がこちらに顔を向けるが、ヤナガワサンは背を丸めたまま、机に顔を向けている。
生きたまま捕食される草食動物みたいに、一切の意思を放棄してしまっているように見えた。
これまでの時間がよほど窮屈だったのか、警官が少し緊張を緩め、経緯を整理して伝えてくれる。
ヤナガワサンに防犯登録の確認を呼びかけたが、無視されたのでどうにか制止し、確認すると持ち主が別だった。
話を聞いても「借りた」としか答えないので、所有者の電話番号に連絡するが、本人が不在で窃盗かどうか判断がつかなかったという。
ヤナガワサンの親にも連絡がいっており、間もなく到着するらしい。
「で、肝心なところなんだけど、君が貸したのかな?」
変になれなれしく、警官はぼくに尋ねてきた。
その目から、これ以上面倒を起こしてくれるな、という意図が伝わってくる。
ぼくが到着するまでに、母が何か、ヤナガワサンに対して問い詰めるようなことをしたのだと思った。
たぶんこの警官は、それを宥めるのに精神を削がれてしまったのだ。
「ぼくが貸しました。間違いないです」
警官が安堵の表情を見せたのも束の間、母の鋭い詰問が飛んでくる。
「なんでこんな、家から離れたところにいるの? どこで、何のために貸したの?」
「それは……」
何をどう説明すればいいのか。
ヤナガワサンから夜中に呼び出され、夜を明かして海まで歩き、帰りにぼくだけ電車で帰ることになった……到底、母が納得するような話ではない。
黙り込んだぼくを見て、警官が助け船を出してくる。
「まあま、とにかく窃盗ではないということですから」
「どうだか。盗んだんじゃなくても、恐喝みたいなこともありうるでしょう。うちの子、気が弱いんだから」
警官があからさまに辟易している。
いっそ消えてしまいたかった。
母の過保護が、ヤナガワサンの前で露呈されたばかりか、その棘まで彼女に向けられている。
それなのに、やめてくれ、の一言が出てこない。
他人を傷つけ、呆れさせて遠ざける――母のそういう心性が、これまでぼくの生存環境をつくり、その澱はぼくの血肉にまで深く染みこんでいる。
ふつふつと、めまいのするような沈黙が、悪夢みたいに続いていく。
と、警官の視線がぼくの背後に向けられる。
振り返ると、母より一回り若そうに見える女性。
その背後に、肩幅の広いスーツ姿の男が立っていた。
顔の彫りが深いからか、目の表情がまったく読めない。
寸分違わず仕立てられたような、不気味なまでのスーツのフィット感は、ぼくが普段目にするサラリーマンたちとは一線を画しているように見えた。
端的に、彼は異界から現れた得体の知れない存在として、ぼくの目に映っていた。
[連載小説]像に溺れる
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