【特集】嵐山周辺~渡月橋・法輪寺・天龍寺・大覚寺・松尾大社~

お疲れ様でございます!
今回からは2本続けて、ある切り口で京都の複数のスポットをご案内する特集記事をお送りしたいと思います。

▼以前の「特集」はコチラから
【特集】豊臣秀吉ゆかりスポット


【特集】琵琶湖疎水~初めて電車を走らせた京都の電化事業~

嵐山のシンボル【渡月橋】

まず、なんといっても渡月橋でしょう。
渡月橋は橋の長さは155m、幅11m、車道2車線の道路がございまして、両側に歩道があります。

渡月橋のルーツは空海の弟子、道昌(秦氏出身とされます)が桂川に橋を架けたのが最初、そのあと江戸時代に角倉了以が現在の位置に橋を架けたものです。

Point 角倉了以(1554-1614)
朱印船貿易でも活躍した、織豊政権期~江戸初期の豪商。
大堰川(嵐山以南を桂川といい、淀川に合流)の開削や高瀬川の開削を行った。

現在のコンクリート台座の橋は1934年に完成したもの、2013年と2018年の台風での被害はまだまだ記憶に新しいですね。

〔撮影:佐京由悠〕

さて、ここで渡月橋にまつわる言い伝えを紹介します。

「十三まいりのあと、渡月橋を渡りきるまでふりむかない」

これは近くの法輪寺の行事、「十三まいり」に由来するものです。
「十三まいり」とは、3月13日から2か月間、数え13歳になった子女が智恵や福徳を授かるために参詣するものです。

この言い伝えはその法輪寺参詣のあとに帰ってくる際、渡月橋を渡りきるまではふり返ってはならない、というもの。
この十三参りの際、親たちはわざと声をかけたり呼び止めたりするわけですが、それに惑わされることなく渡月橋を渡りきる、というある種の通過儀礼なのです。

というわけで次はその法輪寺についてみてみましょう。

 

「嵯峨の虚空蔵さん」【法輪寺】

〔撮影:佐京由悠〕

正式名称を智福山法輪寺といいます。
虚空蔵菩薩という仏さまをまつることから、「嵯峨の虚空蔵さん」とも呼ばれます。

この法輪寺、歴史は奈良時代までさかのぼります。
713年、奈良時代最初の天皇で女帝の元明天皇の勅願によって行基が開創した木上山葛󠄀野井寺がはじまり。

Point 行基(668-749)
奈良時代の僧。
国家仏教の時代、禁じられていた民間布教や社会事業などの活動を行い、たびたび僧尼令違反で弾圧された。
弾圧は徐々に緩和され、743年の大仏造立に弟子などを率いて協力して最終的には大僧正とされた。

そして平安時代になった829年、先ほども渡月橋で登場した道昌が求聞持法を修めて虚空蔵菩薩を安置しました。

求聞持法とはものすごーーーくカンタンにいうと、記憶力を増すこと。
100日かけて100万回の真言を唱えると、すべての経典を理解し記憶することができるというものです。
凄まじいですね…。

847年に名前を法輪寺と改称しました。

電電宮!?

〔撮影:佐京由悠〕

法輪寺にいくためには長い階段と坂を上っていくわけですが、その途中に電電宮というユニークな名前の神社があります。
電電とは電気と電波のことで、まさに電気・電波の神様です。

こちらの電電宮、もとは法輪寺の鎮守でした。
鎮守とは、古代以来の神仏習合のなかで、仏教寺院を守るために設置された神社のことです。

Point 神仏習合
古代以来の神祇信仰と仏教信仰の融合のこと。
神社の域内に設置された神宮寺、仏教寺院に付随して設けられた鎮守などにあらわれる。
近世まで継承されるが、制度的には1868年の神仏分離令によって解体された。

さてこの電電宮、もとから電気・電波の神様であるわけではありません。
まつられているのは、もともとは電電明神という雷の神でした。

1864年の禁門の変の際、一度は荒廃しましたが、1956年に当時近畿電波監理局長であった平林金之助という仏によって電気・電波の神として改められ、現在に至っています。

電電宮に向かう途中にはエジソン(電気代表)やヘルツ(電波)の肖像も見られます。
渡月橋近くの「近道」から行ってしまうとみることができないので要注意ですよ!

 

後醍醐天皇ゆかりの【天龍寺】

つづいては、法輪寺から渡月橋を挟んで反対側に行きまして、霊亀山天龍寺を見ていきましょう。

この山号、「霊亀山」の「亀」とは天龍寺の西にある亀山(=小倉山の南麓)のこととされています。
小倉山はあの「小倉百人一首」の「小倉」で、秋は紅葉がきれいなところです。

天龍寺は足利尊氏・直義が、帰依していた夢窓疎石の勧めで、後醍醐天皇の冥福を祈るために建立したものです。
その造営費用は元との私貿易、日元貿易の収入でまかなったことでも知られています。
(このとき派遣された貿易船を天龍寺船という。)

1386年には京都五山の第一位に列せられました。

▼京都五山についてはコチラ

現在の伽藍は明治時代の再建で、寺域は約950万㎡と広大です。
お寺に入ると大きな「達磨図」が出迎えてくれますよ。

 

離宮のおもかげ残す【大覚寺】

大覚寺は淳和天皇の皇后が父嵯峨天皇の離宮を寺に改めたもので、開創は淳和天皇の子、恒貞親王です。
恒貞親王は大学受験日本史的には承和の変で有名ですね。

Point 承和の変
平安時代初期、恒貞親王の側近であった伴健岑と橘逸勢が処罰された事件。恒貞親王は廃太子となった。
このあと、藤原良房の甥で仁明天皇の子である道康親王(のちの文徳天皇)が皇太子となり、藤原氏の他氏排斥の過程における事件の一つとして位置づけられる。

▼平安時代初期の天皇についてはコチラの動画をご覧ください。

さて、大覚寺は876年に開創され、のちに宇多天皇によって大覚寺の号がつけられました。
大覚寺には、1268年に後嵯峨上皇、1289年に亀山上皇、1308年に後宇多上皇が相次いで寺に入ります。
このことから、後嵯峨上皇の皇統のことを「大覚寺統」と呼ぶんですね。

この大覚寺統はいうまでもなく、のちの南朝で北朝(持明院統)と争うことになります(南北朝動乱)。

▼南北朝の動乱についてはコチラの動画をご覧ください。


大覚寺については名古曽の滝跡、狩野山楽の「紅梅図」「牡丹図」「松鷹図」(大覚寺宸殿障壁画)、大沢池など文化財・名所もございます。

よろしければコチラの動画もチェックしてみてください!

 

お酒の神様として名高い【松尾大社】

つづいては、お酒の神様として名高い松尾大社です。

701年、秦忌寸都理はたのいみきとりという人が松尾山大杉谷の磐座いわくらの神霊を勧請して社殿を造営とされ、秦氏の氏神とされています。

ちなみに秦氏の氏寺は広隆寺でしたね。
広隆寺については前回書かせていただきましたので、よろしければこちらもご高覧ください。

▼広隆寺についての記事はコチラ

先ほど、渡月橋のルーツについて道昌という僧侶を紹介しましたが、この方も秦氏の出身でした。
まさに秦氏ゆかりの地といってもよいでしょう。

 

加茂社とともに王城鎮護の神と位置づけられる

794年、加茂社とともに王城鎮護の神と位置づけられました。

加茂社とは賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の総称のことです。
松尾大社は古くから酒の神として知られ、境内にはお酒の資料館(!)もあるんです。
重要文化財は男神・女神像三体、神像館にはこれを含めて21体の神像がございます。

また、松尾大社は年間行事もユニークなものが多いです。

▼年間行事についてはコチラの動画をご覧ください。

 

嵐山へのアクセスと周り方

〔撮影:佐京由悠〕

以上、駆け足で嵐山周辺の魅力的なスポットをご紹介しました。

嵐山へは、鉄道ですと

①京都駅からはJR山陰本線(嵯峨野線)で嵯峨嵐山駅下車
②嵐電(嵐山本線)では四条大宮(または北野白梅町方面)から乗って終点下車
③阪急では河原町方面から京都線、桂で嵐山線に乗り換えて終点下車

と3通りの行き方がありますので、予定にも組み込みやすいですね。
もちろんバスでもいけますよ!

佐京のおすすめとしては、旅行の行程のなかに1日とって、嵐電の一日乗車券を購入し四条大宮駅から沿線を回りながら嵐山をゴールに設定すると、嵐山への移動時間も楽しめます!

ぜひ、ご参考になさってくださいね。

★「特集・嵐山周辺」についての解説動画はコチラから!
『佐京由悠の中学生からの京都の歩き方~修学旅行を100倍楽しむために~

〔撮影者の記載がない画像:京都フリー写真素材


「佐京由悠の京都の歩き方」

第1回 清水寺編
第2回 六波羅蜜寺編
第3回 八坂神社編
第4回 智積院編
第5回 三十三間堂編
第6回  【特集】豊臣秀吉ゆかりの地
第7回 南禅寺編
第8回 【特集】琵琶湖疏水~初めて電車を走らせた京都の電化事業~
第9回 平安神宮編
第10回 金閣寺編
第11回 龍安寺編
第12回 仁和寺編
第13回 銀閣寺編
第14回 広隆寺編
第15回 【特集】嵐山周辺

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