冬の海辺に吹く風は、当然ぼくらのことなど配慮するはずもなく、冷気の塊を顔面にそのまま叩きつけてくる。
人気のない波打ち際を、老人に連れられた犬が跳ねるようにして進む。
寂れた雰囲気のなかで、犬の体にだけ熱が籠もっているように見える。
「ラス1だわ」
そう言って、ヤナガワサンはタバコに火をつけた。
そういえば、ここまでしばらく吸っていなかった気がする。
海を見ながら吸おうと、取っておいたのだろうか。
夕日に照らされ、影になった横顔が、薄黒い煙で輪郭を曖昧にしていく。
副流煙がぼくの肺に侵入してくる。
ぼくはもともと、その毒に酔って、ヤナガワサンに魅入られていたのだった。
校舎のなかで嗅いだ煙のにおい、その異物感。
その消化できない感覚に、ぼくは惹きつけられていた。
「どうすっかなぁ」
煙と一緒に、誰に宛てたわけでもない言葉が吐き出される。
ここまで来ていながら、ぼくは彼女がいま置かれている状況については何も聞けずにいるのだった。
家に帰れない事情について尋ねる言葉を、何度も飲み込んでしまっている。
それを知ってしまったら、なんだか後戻りができなくなるように思えた。
だって、ヤナガワサンがぼくなんかに、本気で助けを求めることがあるだろうか?
海を見つめる横顔は、寂しそうにも見えるし、何の不安も抱えていないようにも見える。
けれども確かに、ぼくには触れることのできない心の動きが、その奥に秘められていることは伝わってくる。
「ありがとな」
視線を海に向けたまま、ヤナガワサンがつぶやいた。
「え、いや、何も」
ヤナガワサンは先の短くなったタバコを名残惜しそうに見つめ、空き箱に押しつけ火を消した。
「帰るべ」
そのまま、海に背を向け歩き出す。
なにかを心に決めたように、足取りには迷いがない。
かけるべき言葉があるはずなのに、一向に浮かんできてはくれなかった。
10分ほど来た道を引き返したところで、ヤナガワサンが足を止める。
車道の上に、電車の高架橋が通っているのが見えた。
「なぁ、チャリ貸してくんね?」
「え、どういう」
意図はわからないけれども、この時間が終わってしまうことは感じられる。
「悪いけど、電車で帰ってよ。私はチャリで帰る。後で返すから」
ヤナガワサンなりの気遣いに、さまざまな思いが巡る。
今から電車で帰れば、確かに夕飯時には家に着けるだろう。
母親が帰ってくる前に着ければ、言い訳を考える必要もない。
しかし、ヤナガワサンは?
「今日は帰れるの?」
いかにも保身的な聞き方だった。
実際、ヤナガワサンの身を案じているのか、そういうポーズを取りたいだけなのか、自分でもわからなかった。
「ちょっとダルいだけだよ。だいじょぶ。サンキュ」
嘘だと思った。
ちょっとダルいくらいで、冬の夜中に家を飛び出したりしない。
けれどもぼくは、都合よく説得されようとしている。
自分の打算が醜くてしかたがない。
「いや、でもお金ないんでしょ? 今から自転車で帰るのも疲れるし……」
自分の発する言葉がすべて、偽善のように聞こえる。
「大丈夫だよ。ちょっと一人で考えたいし」
それはぼくを引き下がらせるための方便だったのだろうか。
だとしたら、ぼくはその思惑通り、彼女から突き放されたような気分に囚われ、まんまと説得を諦めてしまったことになる。
帰りの電車の窓から見える街並みに、寒空の下で自転車を漕ぐヤナガワサンのイメージがずっとつきまとってくる。
酷いことをしてしまった。
むしろ、はじめから首を突っ込まない方がよかったのではないか?
しかしそれなら、どうするのが正解だったのだろう。
高校生が、他人の家庭の問題に介入できる方法があるだろうか。
と、前の車両が詰まっているらしく、電車が踏切の途中で止まる。
なんとなく、踏切の端に設置された「いのちの電話」の案内板が目に入り、突然閃きが走った。
第三者に相談できる窓口が、きっとどこかにある。
スマホで「親 虐待 相談」と検索してみる。
政府による窓口の案内がヒットした。
本人以外でも、相談所への通告はできるらしい。
体が妙に冷たく、こわばっていくのを感じる。
ぼくが、ヤナガワサンの親を告発する?
一体、どんな大義名分があって?
ヤナガワサンの教育を受ける権利が損なわれてしまう。
ヤナガワサンの信教の自由も損なわれている。
通告が正義である理由はいくらでもある。
しかしぼくがそれをすることは、ぼくの疚しさを覆い隠すための行為に過ぎないのではないか?
[連載小説]像に溺れる
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