2時間くらい歩いただろうか。
風が午後の光を孕んで柔らかく肌に馴染んでいる。
車道の看板に、海辺の街の名前が表示されはじめていた。
高速のインターが近いらしい。
工場やホテル、ディスカウントストアやラーメン屋、民家やマンションが乱雑に並んでいる。
それなのに、なんだか街並み全体はくすんで見えて、やたらと殺風景に感じられる。
あらゆるものの通り道で、あらゆるものが交差している感じがする。
突然、ヤナガワサンが「うげ」と言って歩みを止めた。
視線を追うと、なにやら風景にそぐわない、高級そうな石張りの建物が見える。
ガラス張りの部分も多くモダンな印象だけれども、三階建てのてっぺんは瓦屋根になっていて、異様な雰囲気を醸し出している。
敷地も隣の工場の三倍はあるように見える。
火葬場か何かかと思ったが、建物の中央に巨大なシンボルが掲げられている。
太陽のなかから、目玉がこちらを凝視しているようなマークだった。
「何かの宗教施設かな」
「そう。ウチのパパ候補、ここの信者。ママも信者になった」
「え?」
頭が追いついていかない。
とりあえず、ヤナガワサンの保護者はこの宗教の信者なのだとして、パパ候補というのはそもそも何なのだろう。
ぼくの疑問を置き去りに、ヤナガワサンは興味を失ったみたいに視線を切り、再び歩きはじめた。
去り際に盗み見るように、入り口の門に刻まれた文字を確認する。
どこかで聞いたことのある宗教法人だったが、どこで耳にしたのか思い出すことができない。
しばらく無言の時間が続く。
聞きたいことはたくさんあるのに、何をどう聞けばいいのかわからない。
そもそも、それはぼくが聞いていいようなことなのだろうか。
受け継いでしまっている。
ファミレスでヤナガワサンが発した言葉が、ぼくには計り知れないほどの重みを持っていたのだとわかる。
前を歩くヤナガワサンの小さな背中が途方もなく遠い。
「なぁ」
思い出したように、ヤナガワサンがこっちを振り向く。
「お前、一人っ子?」
投げかけられた質問に、一体どれほどの重みが込められているのか、まったく予想することができない。
おずおずと、そうだけど、と答える。
「やっぱそうか。大変だな」
何に同情されたのかも、何が聞きたかったのかも、皆目見当がつかなかった。
ともあれ、同じ質問を返してみる。
「一人っ子だよ。だから何って話だけど。兄弟いたら違ったとか思わね?」
考えたこともなかった。
境遇について、不満に思うところがないからだろうか。
やっぱりぼくは、恵まれているのだろうか。
「親の全部が来んのはきちぃよ。よくわかんねぇもんばっか押しつけられるし。肝心なとこは見られてない気がする」
言っていることはよくわかる気がした。
点数。
ヤナガワサンの言う、しるし。
悩んでいることの本質は、ぼくも彼女もそう変わらないのかもしれない。
「なんか、別の誰かになりたい」
突然、強い語気が鳴りを潜める。
自分のなかで噛みしめるような言葉。
形さえ定かではないその可能性を把持していないと、一切が崩れ去ってしまうかのようだ。
「でも、ぼくは、ヤナガワサンのことを見ていたいと思う」
口をついて出た言葉に、ポカンとした顔が返ってくる。
切れ長の目がまた、無防備に緩んでいる。
背中のうしろをトラックが次々に通り過ぎ、そのたび地面がずしずし揺れる。
足から伝わる振動、その物々しさに、発してしまった言葉が取り消せないことをひしひし感じる。
緩んだ口元が、じわじわ角度を上げていき、そのうちゲラゲラ笑いはじめた。
「やべ、キメェ」
ヤナガワサンは笑いすぎてひぃひぃ言っている。
ぼくはよくわからない安堵を覚えている。
これでいいと思った。
ぼくには誰かに道を示すなんてことはできないのだ。
ぼくは彼女にヤナガワサンとしてあってほしくて、一方ぼくはヤナガワサンにとって、ぼくという像のうちにあり続けたいと思った。
[連載小説]像に溺れる
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