窓から見える空が明るみはじめ、表の道路を車がランダムに走り去っていく。
ファミレスの時計は5時を回っている。
結局、ヤナガワサンとの会話は進まず、ぼんやりと空間だけ共有していただけだ。
「帰った方がいいよ、心配してる」
家出と決めつけてしまっていたが、なんとなく、そうなのだろうという気がした。
「心配ってなんだろな」
いやに実感のこもった言葉だったので、それはぼくのうちにある親への疑念とはっきり結びついた。
「ぼくも『それって成績心配してるだけじゃん』とか思うことあるけど」
「はぁ。しるしが欲しいんだ。どこも」
しるし。優れていること、正しいことを、形として顕示してくれるもの。
たしかに、誰もがそれを求めているにちがいなかった。
学歴や収入……外部化された、自分の断片。
「クラストップ」という断片をぼくは失い、しかしそれはあまりに外部化されていたので、喪失感も後悔も、何ひとつ感じるところがない。
いまここにある偶然、そのなかでぼくを揺さぶる新しいもの、ヤナガワサンに呼応すること――こっちの方がよほど、奪われることのない核をつくるように思われた。
そろそろ母が起きる頃だ。
今日も出勤するはずなので、あまり細かいことはチェックしないだろう。
少し考え、「友達と有明の方までイベントに行ってくる」とメッセージを残しておく。
明白な嘘でも、何も言わないよりはマシだと学んだ。
送ってしまうと、やたらと気分が軽くなる。
「朝だけど、どうするの?」
期待するような言葉が口をつく。
「どっか遠く行くわ」
きっとそれは自由な時間だろうと思った。
「一緒に行っていい?」
「いいよ」
勝手にしろ、みたいに言われると思っていたのに、快諾されてしまった。
思考回路がまだまだ読めない。
異質な存在。
触れるたびすべてが新しい。
ファミレスを出て、ぼくらは南に進むことにした。
ヤナガワサンが、海に行こうと言い出したからだ。
自転車を押し、ヤナガワサンの後についていく。
スマホの電源は落としてしまった。
ルートを機械的に定められるのは嫌だった。
海までは30キロくらいだろうか。
距離も別に、気にすることはないのだ。
日が暮れるまでに着けばいい、くらいのものだ。
進み出してまもなく、道路の青看板が目に入る。
海の方面に位置しているはずの、工業地域の名前が表示されていた。
その道に出てみると、やたらとトラックの多い幹線道路で、車の流れも速い。
質量と速度の巨大なエネルギーが、排気ガスの突風を巻き起こしながら次々に過ぎ去っていく。
緩やかな上り勾配が続く。
ヤナガワサンの足取りは軽い。
自転車を押しているぶん、ぼくの方が負荷が大きいことに気づく。
道沿いの建物は疎らで、駐車場とかガソリンスタンドとか、工事中の敷地とか、用途のわからない緑地なんかも目立つ。
排ガスが似合う道だと思った。
目的地を持った車たちが、ただ通過するためだけにある道。
海という漠然とした目標も、この道は許容するのだと思った。
「なにもないね」
「逆に、何かあるってなんだよ」
たしかに、この道にもさまざまな事物が存在していることには違いがない。
ぼくはここに、何が「ない」と判断したのだろう。
何かの目的になるべき場所?
目的に適うもの以外を「ない」と切り捨てるのは、なるほどいかにも不自由な考えだ。
30分近く歩いただろうか。ようやく道が下りになる。
かなり長い下り坂だ。
「自転車なら楽じゃないかな」
「それな」
サドルに跨がると、ヤナガワサンがぼくの肩に手をかける。
てのひらが小さく、肩にはほとんど重みを感じない。
中身の入っていないギフトボックスのような軽さは、この時間の重量そのものだった。
「おっけ」
合図とともに漕ぎ出すと、すぐさまスピードが乗っていく。
ヤナガワサンが頭のうえで、「ひゃー」とか「さみぃー」とか奇声をあげる。
わけがわからず、笑いが止まらない。
詰まっている車を何台も追い越したが、下り坂が終わり、またすぐ抜き去られてしまった。
「あーウケた」
ヤナガワサンはそう言って、すとんと自転車から降りた。
それからまた、緩く長い上り坂が続いていく。
交通量が増え、乗用車の割合も増してきた。
時計はなくとも、だいたいの時間がわかってしまう。
「みんな仕事かぁ」
将来働くことを思い、途端に不自由な気持ちになってくる。
「え、なにオチてんの」
「いや、自分もそのうち働くのかぁって」
「バカじゃね。今から悩むとか。下ってるとき上りのこと考えるかよ」
もっともだと思った。
「これまでずっと、そういう感じだった気がする」
「悩み増やすの趣味かよ」
ぼくは笑った。
今度はどのくらい上っただろう。
さっきよりも長かったような気がする。
そのぶん、次に現れた下り坂は、境目の消えた白昼夢みたいに延々と続いた。
ヤナガワサンの奇声でぼくの耳はおかしくなり、また自分の笑いのために、腹筋が痛くてかなわない。
[連載小説]像に溺れる
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