お疲れ様でございます。
大人の修学旅行「佐京由悠の京都の歩き方」、記念すべき第10回目は「金閣寺」を取り上げます。
「金閣寺」はそもそも金閣寺という名称ではなく、正式名称は「北山鹿苑寺金閣」といいまして、現在は相国寺というお寺によって管理されています。
また「鹿苑寺金閣」としている本もありますが、この「鹿苑寺」は創建した足利義満の死後にお寺となった際に義満の法号から名づけられたもの。
んええーいややこしい!
それらの歴史をまずはひとつひとつ見ていきましょう。
目次
金閣寺の歴史
(1397)足利義満が北山殿(山荘)の造営に着手
(1398)舎利殿(金閣)が完成→義満が移り住み政務を行う
(1408)足利義満没
(1420頃)義満の遺言により北山殿が禅寺に改められ、「鹿苑寺」となる
(1467)応仁・文明の乱
*金閣は被害を免れる
→他の建物は江戸時代に順次再建
(1950)金閣寺放火事件
(1987)金閣の改修と金箔の張替え
(1994)ユネスコの世界文化遺産「古都京都の文化財」のひとつに
北山殿から鹿苑寺へ
時は室町時代、室町幕府3代将軍の足利義満はみずからの山荘、北山殿の造営に着手します。
義満はすでに京都室町に花の御所、そしてその隣に相国寺を建立して権勢を誇りましたが、これに満足せず、西園寺家(藤原北家の出)の持ち物であり、その衰退とともに荒廃していた北山第を大改修して北山殿とすることにしたのです。
完成したのは1398年、ここで義満は北山殿に移りすみさまざまな政務を行います。
1408年、義満は死去しますが、その遺言に従って、死後「鹿苑寺」というお寺になりました。
「鹿苑寺」という名前は義満の法号「鹿苑院殿」からきており、そしてこの「鹿苑院殿」は釈迦が初めて説法を行った(初転法輪)場所「鹿野苑(ろくやおん)」にちなんでいるといわれます。
応仁の乱
15世紀の応仁の乱では、主戦場が京都であったため多くの寺院が戦火に見舞われ、鹿苑寺もその被害にあったものの、金閣など一部の建物は被害を免れました。
★応仁の乱についてはコチラ
それら周りの建物が再建されるのは江戸時代のことです。
金閣寺放火事件
しかし、金閣もずっと安泰であったわけではなく、戦後、ある事件で焼失することとなります。
1950年7月2日未明、金閣寺放火事件。
国宝舎利殿(金閣)46坪は全焼し、足利義満の木像や観音菩薩像など文化財6点も焼失しました。
この事件の実行者とされたのが鹿苑寺見習いの若い僧侶で、彼の犯行の動機は三島由紀夫はじめさまざまな作家によって「解釈」されました。
その後1955年、創建当初の姿に復元されました。
さらに1987年の金箔張替え工事などを経て、1994年、ユネスコの世界文化遺産「古都京都の文化財」の構成要素の一つとされました。
【みどころ】金閣寺のみどころ
舎利殿(金閣)
まずは金閣の構造からみていきましょう。
金閣は三層だて。
一層目(一階部分)は寝殿造の「法水院」、二層目は武家造の「潮音洞」、三層目は禅宗様の「究竟頂」と、それぞれコンセプトが異なっています。
一層目の寝殿造は貴族の建築様式、二層目は武士、三層目は仏教寺院の様式ですので、この金閣には公家・武家・寺社すべての権力を自らのものとした足利義満の人生そのものが反映されているといえるでしょう。
詳しくはのちほど、「フカボリ」にて!
夕佳亭(せっかてい)
鳳琳承章という僧が後水尾天皇のために茶人の金森宗和に造らせた茶室で、「夕日に映える金閣が殊に佳い」というところから名づけられたものです。
夕日に映える金閣、江戸時代の後水尾天皇もその「映え」に感動したのでしょうね。
【周辺スポット】金閣寺の周辺スポット
立命館大学(衣笠キャンパス)
まぁスポットなのかというと少し議論の余地がありますが(笑)、金閣のすぐ近くにあるこの立命館大学はもとをたどれば西園寺公望が作った私塾の「立命館」までさかのぼれます。
西園寺の私塾は京都府庁(太政官留守官)によって閉鎖されてしまいますが、その建学の精神を継いだ中川小十郎という人物により京都法政学校として生まれ変わります。
西園寺公望も自らの政治的人脈を生かして最大限これをサポートし、1922年には大学令によって立命館大学の設立が認可されるにいたるのでした。
北野天満宮
ここ北野天満宮も金閣から1.5kmほどのところにあります。
言わずと知れた、菅原道真を祭る学問の神様ですね。
全国に12000社ある天満宮、天神社の総本社でもあります。
「弘法さんが晴れやったら、天神さんは雨や」
これは北野天満宮にまつわることわざで、「弘法さん」は東寺の縁日(21日)、「天神さん」は北野天満宮の縁日(25日)のこと。21日が晴れだったら25日は雨でしょう、という天気のサイクルを表した表現です。
【フカボリ】足利義満の「人生」
義満が生まれたのは1358年、そして10歳の時に元服、征夷大将軍となります。
義満は10歳にして、武家のトップに君臨したのでした。
また1394年には征夷大将軍を辞して、太政大臣となります。
ここで義満は公家政権のトップとなり、さらに翌年出家して仏教勢力(寺社勢力)をも手中におさめることとなります。
中世日本の権力構造は天皇を頂点として、その下で朝廷(公家)、幕府(武家)、寺社(仏教)が相互補完そして対立しながら存在していたという考え方があります。
この考え方に照らすと、義満は公家・武家・寺社すべての権力を掌握し、天皇権力を威圧するまでに至ったということもできます。
ちなみにこのあと義経は中国(明)から冊封を受け、「日本国王」とされています。
さて、これで金閣の構造も納得です。
金閣は寝殿造・武家造・禅宗様という公家・武家・仏教それぞれの様式が使われているのでした。
なるほど、義満の人生を反映しているといえますよね。
金閣寺の解説動画
★「金閣寺」についての解説動画はコチラから!
『佐京由悠の中学生からの京都の歩き方~修学旅行を100倍楽しむために~』
【基本データ】「金閣寺」の基本情報
【アクセス】市バス「金閣寺道」下車 徒歩3分
【参拝時間】午前9:00~午後5:00 (変更有)
【参拝料金】大人(高校生以上)400円 小・中学生 300円
*新型コロナウイルス流行前の情報です。
〔画像:京都フリー写真素材〕
日本史科予備校講師。学びエイド認定鉄人講師。
首都圏の予備校を中心に出講し、その講義は「するする頭に入ってくる」「勉強しなきゃと意識が変わる」「出てきた土地に興味が湧く」と受験生に高い支持を得ている。
授業のコンセプトは「大学に行くのが楽しみになる授業」。
科目の内容はもちろんのこと、丸暗記のみに頼らない本番での知識の導き方・解き方、現場に足を運んで得た知見などをもとに大学に行っても役に立つ「受験科目」を展開。
受験生におくる言葉は「一生勉強、何のこれしき。」
「佐京由悠の京都の歩き方」第1回 清水寺編第2回 六波羅蜜寺編第3回 八坂神社編第4回 智積院編第5回 三十三間堂編第6回 【特集】豊臣秀吉ゆかりの地第7回 南禅寺編第8回 【特集】琵琶湖疏水~初めて電車を走らせた京都の電化事業~第9回 平安神宮編
第10回 金閣寺編