文化祭開けの教室は、それまでとは異なる空間になっていた。
ぼくには受信できない電波が、みんなに共有されているように思われた。
べつに、あからさまに無視されているというわけではなかった。
けれども、ぼくからはぽっかり抜けて落ちている記憶を、彼らは胸にしっかりと抱え込み、それが目には見えない会員証として機能しているのだと思った。
ホームルームが始まると、ぼくはなにか、目の前のヤナガワサンと一緒に隔絶された空間に取り残されているような錯覚を抱いた。
岡本先生の言葉が入ってこない。
ここと、向こう側とは、通路が閉ざされているのだ。
いくら声をあげても届かない、分厚いガラスの中にいるみたいだった。
誰も、ぼくたちのことを意識していない。
授業が始まってしまう。
ぼくは何より、その内容を聞き逃してしまうことを怖れていた。
後れをとってはならない。
スマホを出して、暗い画面を眺める。
――あれって、集中する儀式?
白沢の声が反響する。
ぼくは慌てて振り返り、一番後ろの彼女の方を見る。
一瞬目があったはずが、一切表情を変えることなく、白沢はふっと視線を逸らした。
目が合ったのが、ぼくの気のせいだったみたいに。
もしかすると、ぼくにはもはや、人権どころか存在していることすら認められていないのではないか?
左の掌を、右の親指で擦る。
嫌な感触は消えず、擦った分だけ広がっていく。
と、視線を感じて動きを止める。
しかし見回してみても、ぼくを見ている者などいない。
掌を見つめる。
やっぱり、誰かに見られている。
しかしその誰かは、どこにも存在していない。
授業が始まり、先生の声が単なる音声記号として聞こえてくる。
奇妙に集中できていた。
そこにしか、ぼくの意識の逃げ場はないのだ。
黒板と、ノートの間の往復運動。
そこから逸れてしまったら、恐ろしい視線の熱にぼくは焼かれてしまうだろうと思われた。
休み時間が長い。
それまで書いていたノートを見返す。
大丈夫、理解できている、頭はしっかりしている……最悪、これさえあればいいのだ。
存在が消えたとしても、点数は残る。
大丈夫、これさえあればいいのだ。
四時間目終了のチャイムと同時に、ぼくは教室から立ち去る。
もはや部活棟の階段にしか、ぼくの生存圏は残されていない。
階段に腰を下ろし、パンの袋を開けようとしたところで、目の前に人影があることに気づく。
白沢だった。
今度は、はっきりぼくの目を見ている。
存在を認識されなくなっていたわけではないことに安堵しつつも、今度は文化祭を休んだことについて、何か言われるのではないかと萎縮する。
「いつもここで食べてるの?」
白沢の声は優しく響いた。身構えていた分、拍子抜けするようでもあった。
「食べてるとこ、見られるの、嫌だから」
「変なの。やっぱ梶谷君、自意識過剰だよ。あ、ダメ出しとかじゃなくて――」
ダメ出しじゃなく、自意識過剰を指摘するということがあるのだろうか。
けれども、白沢はぼくを軽蔑しようとしているわけではないらしいのだった。
「今日だって、何? いつにも増して挙動不審っていうか。休んだこと気にしてるの? ハブられてるって思ってる?」
心臓を掴まれたみたいに、呼吸が一気に浅くなる。
見られていた。
あれほど疎外されていたのに、なぜぼくの行動だけ、手に取るように把握されているのだろう。
「べつに、感じ方は自由だけどさ、辛くない? ネガティブに受け取りすぎだよ。そりゃ、周りが知らない話で盛り上がってたら寂しいけどさ」
教室に入ったときの雰囲気が、ぼくの気のせいだったというのだろうか? クラスの連帯から弾き出され、胸が沈むような感覚を抱いたのも、単なる被害妄想だったのだろうか。
「なんで……」
なぜだか、疑問詞だけが口に出た。
ぼくは白沢に、何を聞こうとしたのだろう?
「なんで、ぼくにそんな」
「ん? いやなんか、私が追い詰めちゃった感あるし。梶谷君、私のこと敵みたいに思ってない? 悪く捉えてほしくないっていうか」
「敵……」
そうかもしれなかった。
ぼくは、早川と白沢を、生態系のピラミッドの上位に位置する存在と見なしていた。
生存競争において、ぼくを淘汰する側の者として――
と、白沢が突然後方を振り返る。
ヤナガワサンと、遠藤がこっちに近づいてきていた。
[連載小説]像に溺れる
#0 像に溺れる
#1 「適応」の行方
#2 場違いなオレンジ
#3「孤立」という状況
#4「像」の世界
#5 内面世界による救済
#6 注釈を加えているもの
#7 像の交錯
#8 淘汰されるべきもの
#9 空虚な像
#10 SNSの亡霊
#11 作られた像
#12 脱色と脱臭
#13 標本としての像
#14 抽象と具体の接点
#15 内面と世界の間の通路
#16 仮定法の世界
#17 罰による強制
#18 コバンザメ
#19 小さな変化
#20 個別のチャット
#21 権力の構造
#22「羅生門の記憶」
#23 未知の生態
#24 人権ゲージ
#25 淘汰する側の者