「法学入門」の序盤に、「人権」という言葉について解説するコラムがあった。
ぼくは自然と、それを長い時間眺めていた。
そのコラムによれば、「人権」は多層的・多義的に扱われる概念だという。
法律で守られるべき具体的な権利、たとえば財産や生命を奪われないことを意味していることもある。
あるいは法律を超え、誰もが自然に持っているはずの、自由にものを考えたり、行動を誰にも強要されなかったりといった権利を指すこともある。
日常的に人権という言葉が使われるのは、後者の意味においてであることが多い。
人権が具体的権利として実効性を持つためには、国家権力による保障が必要だという記述もあった。
それはなんだか、ぼくを落胆させる話だった。裏を返せば、国というバックの存在なしに、人権という概念はうまく機能しない、ということではないか。
法律で保障される権利のほかは、「人権」は空虚な幻想なのかもしれなかった。
実際のところ、クラスの中で早川や白沢が持っている権利と、ぼくや平山が持っている権利は、明らかに同じ重さではなかった。
たとえばゲームのHPみたいに、あらゆる人間の頭上に「人権ゲージ」といったものが表示されていて、それが常に均一に保たれることが保障されているのなら、「誰もが生まれながらに人権を持っている」という話も信じられるかもしれない。
けれども現実には、ぼくが一人パンフレットを折り、人権ゲージをすり減らしていても、誰もそんなことは気にかけないのだ。
あるいは平山の人権ゲージが減っているとき、早川は指示を止めなかったし、何よりぼく自身、見て見ぬふりを続けていた。
法律で守られる権利の外側には、見えない人権ゲージをめぐる争いが繰り広げられているのかもしれない。
一人ひとりに与えられるゲージの総量は、法が謳うように平等などでは当然なくて、見た目とか生まれた家とか気質とか、そういうもので何十倍も違っている。
恥をかけばゲージは減るし、尊敬されれば増えていく。
ゲージの多い者は、少ない者に対して、さまざまな行為を強いることができる。
それは虚しくなるくらい、ぼくにとってしっくりくる構図だった。
適応しなければならない。
けれど、適応とは何だろう? ゲージを増やして、人を思いのままに動かすこと? 限られたゲージで、納得のいかないことを強いられても、文句を言わずに遂行すること?
ぼくはこれまで盲目的に、「使われる側」の適応へとひた走ってきたのではないだろうか。
なんだか出口が見えなくなって、本を閉じ、SNSを開く。ある政治家の、記者会見における横暴な対応が話題に上っていた。
拡散されている映像を見てみると、差別的発言のあった議員への処置について質問した記者に対し、「あんた、そんなことばっか聞いて、また都合よく流すつもりだろ」と凄む大臣の姿があった。
威圧によって相手を黙らせようという、明白な意図を感じ、ぼくは縮み上がる。
同時に、「結局、こういうことなのだ」という思いがあった。
この大臣は、ぼくの何千倍もの人権ゲージを有しているに違いなかった。
質問に答えず、威圧するだけで、意向を通すことができるのだ。
ぼくはその投稿を引用しつつ、コメントをつける。
――知る権利ガン無視じゃん。偉い人は感情でものを動かせていいですね
数分して、「いいね」が4つ、ぼくのコメントにつけられていた。
なにか、SNSではじめて仲間を見つけたような気がした。
おそらく「いいね」をつけた人たちも、人権ゲージの少なさに悩んでいるに違いないのだ。
報道にリアクションをしているアカウントたちは、その多くが人権ゲージの不当な少なさに憤っている人々だった。
ぼくの鬱屈は、自分だけのものではなかった。
巨大な人権ゲージを持った人物が、矮小なゲージしか持たない人々に対して強制力を発揮するという構図は、世界の至るところに存在するのだろう。
ぼくは新しいアカウントを作り、人権ゲージの少なさに憤る人々の一人となってみようと思った。
[連載小説]像に溺れる
#0 像に溺れる
#1 「適応」の行方
#2 場違いなオレンジ
#3「孤立」という状況
#4「像」の世界
#5 内面世界による救済
#6 注釈を加えているもの
#7 像の交錯
#8 淘汰されるべきもの
#9 空虚な像
#10 SNSの亡霊
#11 作られた像
#12 脱色と脱臭
#13 標本としての像
#14 抽象と具体の接点
#15 内面と世界の間の通路
#16 仮定法の世界
#17 罰による強制
#18 コバンザメ
#19 小さな変化
#20 個別のチャット
#21 権力の構造
#22「羅生門の記憶」
#23 未知の生態
#24 人権ゲージ