はい、お疲れ様でございます。
今日ご紹介するのは、朱塗りの本殿でお馴染みの八坂神社。
「京都」「祇園」といえばまず思い浮かぶ神社でしょう。
名前は知っているけれど、実際どんな神社なの?という方も多いのではないでしょうか。
今日はこの「八坂神社」を巡ってみたいと思います!
目次
八坂神社の歴史
(876)僧円如が建立した堂宇*諸説あり
(869)疫病の流行→御霊会 *祇園祭の最初
(1467)応仁・文明の乱→祇園祭中止
(1500)祇園祭復活(京都の町衆による)
八坂神社の創建については諸説あり、詳しくはよくわかっておりませんで、ここでは代表的な二つの見解をご紹介いたします。
まず、656年、高句麗から渡来した使節「伊利之」により創建されたという説と876年、僧円如が建立した堂宇(仏像を安置するための建造物)がもとであるという説です。
これ、神仏習合といって、カンタンにいうと昔は「神様」に対する信仰と「仏様」に対する信仰が融合していたことに由来しています(→【フカボリ】)。
「牛頭天王社」
さて、八坂神社はもともと「祇園社」とか「牛頭天王社」と呼ばれていました。
「牛頭天王」というのは、『平家物語』の冒頭でお馴染み祇園精舎の守り神のこと。
なるほど、ここにも仏教が登場するんですね。
御霊を慰めるための御霊会
さて、869年、疫病が流行しまして、これに伴い御霊会が開催されます。
御霊会というのは「御霊(≒怨霊)を慰めるための儀式」のこと。
こうした非業の死を遂げた人々の「怨霊」が京都の町で悪さをするといわれておりまして、これを慰める必要があったんですね。このような信仰を御霊信仰といいます。この祇園社での御霊会が祇園祭のもとといわれています。
日本三代祭の一つ「祇園祭」
現在では祇園祭は八坂神社で毎年7月に行われていて、東京の神田祭、大阪の天神祭と並んで日本三大祭の一つに数えられる祭りです。
この主戦場が京都でしたので、さすがに祇園祭は続行できないということで中止されました。
しかし応仁の乱後、富裕な商工業者からなる町衆が復活のため立ちあがり、応仁の乱発生から33年経った1500年、復活を遂げて現在に至っています。
1868年、明治維新を迎えたこの年、神仏習合の終了に伴い八坂神社と改称し、今に至ります。
【みどころ】祇園造と忠盛灯籠
祇園造と忠盛灯籠
八坂神社の見どころといえばまずコレ。祇園造です。
こちらは八坂神社特有の様式で、拝殿と本殿という本来ならば別々の建物が一つの屋根で覆っているのが特徴です。ぜひお近くでみてみてください。
平清盛の父にまつわる「忠盛灯籠」
忠盛さんの灯籠です。
忠盛さんとは、平清盛の父である平忠盛のこと。
この灯籠には彼の冷静さを伝えるエピソードが伝わっています。
ふとそのとき、八坂神社の森の中にボヤっと灯りと人影が見えまして、白河は「化け物だ!」と思ったようですが、忠盛は冷静に対応し、その灯りが八坂神社の灯籠に蓑を被った僧侶が火をつけていただけということを指摘するのです。
その灯籠がコチラ忠盛灯籠です。
【フカボリ】神仏習合
神仏習合とは、古代以来の神祇信仰と仏教信仰の融合のこと。
これに基づいて、例えば神前で仏教のお経を読む神前読経、僧侶の形をした神像彫刻である僧形八幡神像などがみられます。
この神仏習合が終了したのが1868年の神仏分離令です。
ですから、これを機に八坂神社も「牛頭天王社」「祇園社」の呼称をやめ、素戔嗚尊を祭神とする「八坂神社」とされたのです。
【基本データ】八坂神社
【アクセス】
市バス「祇園」バス停下車 すぐ
阪急電車「河原町」駅下車 徒歩8分
京阪電車「祇園四条」駅下車 徒歩5分
【拝観料】なし
【拝観時間】参拝は24時間可
八坂神社についての解説動画
★八坂神社についての解説動画はコチラから!
『佐京由悠の中学生からの京都の歩き方~修学旅行を100倍楽しむために~』
「八坂神社」
日本史科予備校講師。学びエイド認定鉄人講師。
首都圏の予備校を中心に出講し、その講義は「するする頭に入ってくる」「勉強しなきゃと意識が変わる」「出てきた土地に興味が湧く」と受験生に高い支持を得ている。
授業のコンセプトは「大学に行くのが楽しみになる授業」。
科目の内容はもちろんのこと、丸暗記のみに頼らない本番での知識の導き方・解き方、現場に足を運んで得た知見などをもとに大学に行っても役に立つ「受験科目」を展開。
受験生におくる言葉は「一生勉強、何のこれしき。」
「佐京由悠の京都の歩き方」第1回 清水寺編第2回 六波羅蜜寺編
第3回 八坂神社編