#2場違いなオレンジ——像に溺れる

チャイムが鳴り、担任の岡本先生が入ってくる。一斉に伸びる背筋とともに、気怠さと緩慢さはしまいこまれて、起立、気を付け、礼の号令が、ひと息ごとに夏休みを飛び越していく。

「お久しぶりです。皆さん、有意義な夏を過ごせましたか?」

岡本先生はやわらかな目つきで教室を見渡す。無意義な時間など過ごすはずがないと強い眼差しで見返すぼくらに満足したように、先生は出席を取りはじめる。テンポよく進む呼応が、けれどもぼくの手前で、ドアの開く音によって遮られた。
一瞬、呆気にとられたような表情を浮かべた岡本先生に釣られ、ぼくらは後ろを振り返る。

眩しいほど明るいオレンジの髪が目に刺さった。

パーマのかかったショートヘアは、風の流れを象ったみたいに、軽やかな浮遊感を湛えている。オレンジ色の毛先が奔放に跳ね、飛沫のように光を反射していた。
あまりに鮮烈な二学期デビューに息を飲むぼくらのことなど構うことなく、彼女は飄々と席へと向かって行く。

留年生の、ヤナガワサン。

教室に不似合いなその彩りは、これまで触れられることのなかった彼女の謎――留年をめぐる事情、留年を引き起こした彼女の性質――が、破裂するように開花したことを思わせる。
一学期の間、目立つことなく、誰とも会話することなく、彼女が秘めていた何か。それが今、まさにオレンジのパーマとして顕現している。しかし目の前に現れたものが一体何を意味しているのか、ぼくらには一切検討がつかず、ただただ場違いなオレンジ色に唖然とするばかりだった。

場違いではあったけれども、不思議とオレンジのパーマはヤナガワサンに似合っていた。むしろ、一学期の姿が仮初めのものであったと思えるほど、一つの完成した姿がそこにあった。
細く切れ長の目、鋭角的な輪郭は、化粧による陰影のためか、あるいは顔を覆うオレンジ色のためか、周囲への反抗的な構えとして映る。それは学校において出会う一切のものに対する拒絶であると同時に、外の世界への志向でもあるように見えた。彼女は明確に、こことは別のところに本来の生息地を求めていた。

ヤナガワサンが席につくのと同時に、岡本先生が大げさな咳払いをして、ぼくの名前を呼ぶ。覇気のない返事が喉から抜け出て、その後の点呼もなんだかふらふらと、千鳥足のように進んでいった。
ヤナガワサンの名前が最後に呼ばれ、返事は確かに聞こえたはずなのだけど、彼女の声は幻みたいにぼくの意識から逃れていく。

講堂に移動し、全校集会が進む間も、ぼくらの意識はオレンジのパーマに引き付けられたままだった。

彼女の変化について、確かめる手段がぼくらにはなかった。変化する前のことも何ひとつ知らないのだから、そもそも彼女にとってこれが変化であるのか、本来の姿への回帰であるのか、知りようがないのだった。ヤナガワサンの存在に、誰も触れることができない。そのことがいっそう、オレンジ色を輝いて見せる。

そうでなくても、暗い講堂のなか彼女の明るい髪はひときわ目を引いた。全校生徒の関心がヤナガワサンの髪に集中しているようで、ぼくは他人事ながら肝を冷やしていた。

イワシとかアジとか、青魚が無数に詰め込まれた水槽に、熱帯魚が一匹放り込まれている。無個性な群れは一つの意思に従うように、統率のとれた全体として動く。
圧倒的な「全体」に対して、熱帯魚は適応する術を持たず、すぐさま淘汰されることだろう。水面に逆さに浮かぶ、死骸のイメージが脳裏をよぎる。

左手が落ち着かず、親指の付け根のやわらかいところを人差し指と中指の爪で引っ掻く。鼻腔にまだ、ドブの臭いがこびりついている。

どれだけ色彩豊かでも、淘汰されれば腐っていく一方だ。あのようになってはいけない。わかりきっているはずなのに、ぼくはヤナガワサンから意識を逸らすことができない。

集会が終わり、講堂から出て行くときに、二年生の男子が一人、ぼくらのクラスの列へと近づいてきた。すらりとした長身に、無造作にセットされたツーブロックが洗練された印象を与える。

彼はぼくらの目を気にすることなく、ヤナガワサンに声をかけた。

「ヤナガワ、お前またそんなんして、今度は退学になるぞ」

「っせーよ」

はじめて明確に意識した彼女の声。その鋭い棘は、何か身体の、危機を感知する部分に響く。それはぼくらが学校生活を送るうえで必要とすることのない、切迫した次元に関わるセンサーだった。

「お前、どうしてそうやって――」

彼の言葉は、ヤナガワサンが発した舌打ちの音によって遮られた。彼だけではなく、ヤナガワサンの周囲にいた者はみな、彼女に気圧されたように硬直している。もともと、彼女がぼくらとは別種の生態を備えていたことを、ぼくらははっきりと理解する。

「うぜーよ。彼氏かよ」

にべもなく歩きはじめたヤナガワサンに取り残され、ぼくたちは呆気にとられていた。足元の床がひっくり返され、裏側に潜んでいた毒々しい蝮や鼠が一瞬にして四方に散じていったような、受け入れがたい感覚があった。留年という異常事態の内部事情とか、得体の知れない交友関係、あるいは男女の関係―—ぼくたちにとって「校舎の外側」にしかなかったものが、実は身近なところで息を潜めていたのだ。

再び教室へと移動しはじめるときには、ぼくらはそれぞれヤナガワサンに対する今後の態度を決定していたのだと思う。
つまり彼女の今の言動を、見なかったことにする……
というよりもむしろ、彼女の存在そのものを「なかったことにする」という方が近いのかもしれない。


[連載小説]像に溺れる
#0  像に溺れる
#1 「適応」の行方
#2 場違いなオレンジ
#3「孤立」という状況

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