
小学生の時に衝撃を受けて以来、ずっと頭の片隅にある沖縄の地。
そんな沖縄を再び訪れた日本史講師の佐京由悠先生が解説する沖縄紹介を連載でお届けします。
今回は基地建設問題で揺れる辺野古、チビチリガマを訪れます。
新基地建設中の名護市辺野古
名護市辺野古。
1950年代から使用されているキャンプ・シュワブ周辺の社交街としてにぎわったこともあったようであるが、いまとなってはその面影は全くと言っていいほどない。
また辺野古の美しい海はジュゴンやアオサンゴなどといった絶滅危惧種の生息地とも知られている。
そんな世界的にも貴重な海が、いま、こうなっている。
この写真は、新基地建設中の場所の北側から望む砂浜から撮ったもので距離はあるが、それでも大規模埋め立てが行われているのは容易にわかる。
抗議活動メンバーの話
ここでは9時、12時、15時の1日3回、土砂を積んだ大型車両の搬入が行われるが、そのタイミングに合わせて抗議活動、主に座り込みが行われる。
メンバーの初老男性は語った。
時間になると座り込みを開始する。工事敷地内から30~40名の機動隊と、民間の警備会社の警備員たちが出てきて、排除される。その繰り返しなのだという。彼・彼女らはそれを2000日以上も続けている。
チビチリガマ
1945年4月1日。米軍は沖縄本島に上陸した。

読谷村の波平に「チビチリガマ」というガマがある。
ガマとは沖縄で見られる自然洞窟であり、主に石灰石でできた鍾乳洞である。
チビチリガマのチビは「尻」、「チリ」は「切る」で、谷底の細い川が最後はどこへ流れていくのかわからない、というところから名付けられた。
このチビチリガマで、沖縄戦開始直後、凄惨な集団自決が行われたことは広く知られている。
1944年4月2日、チビチリガマで起きた悲劇
4月1日に読谷村の西海岸に上陸した米軍は、その日のうちにチビチリガマ周辺に迫った。
村民は1944年のいわゆる「10・10空襲」以降、攻撃を受けるたびにガマへ逃げ込んでおり、この日も約140名の村民たちがここへ逃げ込んでいた。
4月2日、そのうちの83名が「集団自決」をした。
その6割が、18歳未満の子どもたちだった。
「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」
これが、戦時教育が罪のない村民に対してしたことの結果である。