象徴化する遊びと生きる力
さて、象徴化する遊びに特徴的なのは、秩序や規範の機軸がいかようにも変容しうることである。たとえば先の話のあとで、ある子が「すべての段差を踏んで船内を一周する」という動きを取り、そのスピードを誇ったとすれば、別の子たちも同様の動きを真似しはじめるかもしれない。
構造化された遊びでも、同種の「ルール変更」は可能だが、それは「正規の使い方」からの「逸脱」として位置づけられる。いっぽう、象徴化する遊びに逸脱はない。つねに現状から逸脱していく運動そのものが、象徴化する遊びの本質だからである。
おそらくこれは、私たちが「生きる力」として思い浮かべるものと大きく関わっている。それは一面としては、一般に「想像力」と呼ばれているもの、すなわちここでいう象徴化する能力そのものを指しているかもしれない。物事を新たな面から捉え、独自に解釈し、それを他者に伝えていく力である。
一方で私は、生きる力というものが、上のような想像力である以上に、象徴化する遊びを通じて育まれる「他者への寛容さ」であるように思えてならない。象徴化のプロセスは、必然的に他者からの承認という面を孕んでいるが、おそらくこれは「承認する側」にとっても重要なことなのだ。
物事にはさまざまな側面があり、人によって何をどう解釈するか、それに対してどのようにアプローチしていくかは異なる。他者が提示した解釈やルールに対して、まぁそれでいいかと同調してみたり、あるいはこっちの方がベターだろうと別の方法を示してみたりする、そういうファジーな合意形成のプロセスが、おそらく寛容さを培うのではないか。
この合意形成において共有されているのは、「その遊びの枠組みはどのようにもありうるし、どれかひとつの形に収めなければいけない理由はどこにもない」という前提である。一方またゆるやかな共通認識として、「枠組みを共有した方がなんとなくよさそうだ」という志向もある。
それはどのようであってもいいけれど、どうあれともかく乗っかってみる。寛容さとは無数の「ありうること」に開かれていることであり、さらにそのうちのひとつを選んでいく過程に対しても、同様に開かれていることなのかもしれない。
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「自分だけの意味」はいつも“ムダ”のなかで見つかる