“謎のオブジェ”のなかで生起する共同体

しばしば息子を連れて行く公園に、セメントで龍を象ったオブジェがある。3メートルほどの胴体部分が船の形状をしており、子どもが数人入れるような作りになっている。内部には階段なのかベンチなのか、中央の一番深い部分から側面と前後方に向かってそれぞれ2段ずつ段差が設けられている。

とくにどこかが動くわけでもないので、大人からすると楽しみ方がわからない謎のオブジェだが、不思議と子どもたちの興味を引くらしく、つねに数人の未就学児がその中で遊んでいる。私の息子も、ブランコや滑り台よりもその龍がお気に入りである。

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この龍を一種のコンテンツとして見るのなら、滑り台やブランコと比べて著しく不出来であることはいうまでもない。なにしろ用途がわからない。そこからどう楽しみを引き出せばよいのか、手がかりがない。快に到達するまでのプロセスが、構造化されていないのである。

滑り台やブランコを構造化された遊びとするのなら、その龍の船を使った子どもたちの遊び方は、「象徴化する遊び」とでも呼ぶべきものだ。船に入った子どもたちを見ていると、はじめのうちはそれぞれ段差に座ったり、龍の首や尾に触れてみたり、段差を上り下りしながらグルグルと内部を回ったりしている。これらの行動は無秩序だが、互いが互いの動きに注意を払っているうち、それらの行動が次第に、彼らのなかで独自の意味をもつようになってくる。

3歳と5歳くらいの兄弟が、龍の船に入ってくる。弟が段差の一番上まで昇り、龍の首に触れながら母親に向かって「ほら、ぼくが一番高いよ」と言ってのけた。それを見るなり他の子たちもワラワラと動き出し、同じように首に触れたり、あるいは反対側の尾に抱きついたりする(うちの息子である)。

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と、したたかな兄はその間に船の縁の部分によじ登って立ち上がり、「ぼくの方が高いよ」と高らかに宣言する。その縁は5センチほどの幅しかなく、年長者の彼でなければバランスを取ることが難しい。彼は一時注目の的となったが、即座に母から「危ないから降りて」とたしなめられ、「縁に立つこと」は乗員たちの間で禁止カードになった。それぞれが自己主張の方法を模索し、船内をウロウロしはじめる。

すなわち「象徴化」と私がいうのは、自身の行為が何を意味しているのか、自ら意味づけ、表現していく過程のことである。それは「横断歩道の白いところだけを踏んで渡りきれたらいいことがある」という類いの内的な意味づけであると同時に、他者による承認(それが無意識的なものであれ)を前提としており、それゆえ規範の設立にも関わる営為である。あの弟が「一番高いところ」を宣言し、乗員がその意味するところを認識した途端、そこには秩序が芽生えるとともに、ミクロな共同体が生起していたのだ。

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象徴化する遊びと生きる力

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