渡る世間は“罠”ばかり
ハイデガーはこの「用立て」という言葉を、ギリシャ語で「制作」を意味する「ポイエーシス」の現代的なありようとして位置づけている。それは人間が何かを作り出そうとする根本姿勢に関わるものであり、その意味で現在の商業コンテンツを批判する際にも有効な視点を与えてくれるはずだ。
たとえばこうだ。現在のWebコンテンツは、ことごとく「閲覧数を稼ぐこと」を目的に制作されている。メディアは閲覧数につながるネタにばかり目を光らせ、取るに足らない出来事から扇情的なネタを用立て、その裏で世間の興味を引かない「本質的な情報」は切り捨てられていく……。
もはや耳タコの話だが、重要なのはおそらく、現在の技術環境がコンテンツ制作における「用立て」の傾向を加速させている点である。すなわち、Web上でのユーザー行動を大局的に把握できる環境が、「数字を取れる施策」の選別をいっそう合理的かつスピーディにしているのだ。
この合理化は、ビッグデータにもとづく類型化とパターン化を通じて達成される。「○○の人は○○な行動をする」「人は○○なときに○○しやすい」といった傾向の束に対して、それに迎合する形でコンテンツを設計していくわけである。
厄介なのは、この合理化の過程で用立てられているものが、自然物ではなく「人間の性(さが)」だということである。私たちは自然を対象物として操作・管理するのと同じように、もっといえば動物の習性を利用して罠にかけるのと同じように、私たち自身の感情や行動を操作・管理しようとしている。しかもそれはかなりの程度、実現できてしまっているのである。
それはネット上のコンテンツに限らず、テーマパークでもスーパーでも、基本的には同じことがいえる。事業者は巧みに客の欲望を喚起し、それを叶えるための環境や設備を用意することで対価を得る。その際、人間の感情や行動を類型的に把握することを通じて、目的達成までのプロセスを適切にマネジメントしてやるわけだ。
その手練手管は、欲望を引き出すための作為に満ちている。ファミレスのレジ付近に売られるオモチャのごとき罠を設置することが、「導線設計」や「インターフェイス構築」といった言葉の下に推奨されている。
飽和するコンテンツに「外部」はあるか
人間が人間の欲望を操作し、その達成までのプロセスをパッケージングして管理する、ほとんど罠のような構造の集積をハイデガーは「作為構造(Machenschaft)」と呼んだ。
私はこの作為構造という言葉で、人間的生活の一切を包みこむテーマパークのような空間をイメージする。テーマパークは来場者に快と喜びを約束する場所であり、その意味では一種のユートピアでもある。一方で、メリーゴーランドやコーヒーカップに乗った子どもたちが一様に喜んでいる光景は、どこかディストピア的でもある。おそらく、人間の情動が一元的な機構のもとに操作されていることに加えて、それが回転運動のかたちで永遠性をイメージさせるからなのだろう。私たちはコンテンツを享受しながら、何か大きなものの手のひらの上で、一生踊らされつづける……。
もし、私たちの喜びも怒りも悲しみも、このようなメリーゴーランド的な仕掛けによって操作され、ほどよい「落とし所」に収束させられるとしたら――私がYouTube育児に疚しさを覚える根っこには、そういう構造のうちにわが子を閉じ込めてしまうイメージがあるのかもしれない。それでは一向に、自分で考え、生き抜いていくための力は培われないように思える。
しかしそれでは、生きていくための力とは一体なんなのだろう。毎週キャンプにでも連れて行けば、そういう力が身につくのだろうか。実際に、そう考える親もいるだろうし、それはかなり効果的であるようにも思える。少なくとも、自然との触れあいや、そのなかで見つける遊び方は、上のような作為構造の外部に位置づけられるかもしれない。
とはいえ当然、アウトドア趣味であれば何でもいいわけではないはずだ。とくにコンテンツの飽和した現代においては、「手ぶらでキャンプ」のように、「コンテンツ的なものの外部」をコンテンツとしてパッケージングする手立ても散見される。単にアウトドア趣味を楽しませるだけでは、どうにも十分でないような気がしてしまうのである。