息子が鳩を追いかけることに夢中である。ランニングバイクで公園の遊歩道を進んでいる最中、道端に鳩を見つけるたびバイクを乗り捨て、一目散に駆け寄ってはバサバサと逃げられている。鳩としては迷惑きわまりないだろうが、私としてはランニングバイクを追いかけるのも一苦労なので、目の届く範囲で息子をいなし続けてくれる彼らには頭が上がらない思いである。
3歳児の関心はいまだ無秩序であり、注意の向く先をコントロールしようとする親の思惑は、往々にして甲斐なく終わる。動物園に連れて行ったのに、動物たちにはさほど興味を示さず、なぜだか手洗い場の蛇口に夢中になっていたりする。入場料を払っている我々としては当然「もったいないから動物を見よう」というわけだが、彼としては目の前の蛇口を捻ることが最大の関心事になっているのだからしかたがない。
こういうとき、私は親として、わが子に「正しい楽しみ方」を教えるべきなのだろうか。鳩ではなくブランコへと、蛇口ではなく象やキリンへと向かうよう促すべきなのだろうか。
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ネットコンテンツは子どもをダメにするのか
現代は興味の対象を見つけることに苦労しない時代である。ネット上に飽和するコンテンツは当然のごとく育児の領域にも侵入し、私自身もYouTube育児にかまける日々を送っている。ユーザーの好みを学習し、関連動画を自動的に再生してくれるプラットフォームは、子どもの興味を延々と引きつける装置としてあまりに合理的なのだ。
しかしいくら合理的であっても、それが望ましい育児の形でないことは明白である。優秀すぎるレコメンド機能は、子どもたちを「好み」のなかに閉じ込め、好奇心や想像力を育む機会を奪ってしまう……。たとえ教育系コンテンツばかりが表示されるようにしていても、この疚しさが消えることはなさそうだ。
「技術や商業コンテンツが人の心を貧しくする」という言説は、資本主義が発展するなかで何度も繰り返されてきた。それらのうちには「テレビを見るとバカになる」といった通俗的なものから、学問的研究までさまざまな射程と深度のものが含まれる。
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そのような言説の基調をなす論のひとつに、ハイデガーの技術批判がある。彼は現代技術をもとづけている人間の姿勢、あるいは我々の事物に対するアプローチのあり方を「用立てること(Bestellen)」という言葉で表現した。すなわち、人間は自らの生存環境を改善するために自然の事物を用立てるわけだが、そのとき我々にとって事物は単なる「在庫(Bestand)=目的に供する材料」としてのみ映り、それ以外の側面は捨象されてしまう。目的を達成するまでのプロセスを合理化すればするほど、用立てられる事物が本来何であるのか、どのようにあるのかについては省みられなくなっていく。