古びた城に新しい風を取り込むために

欲望の対象が曖昧なまま、それを満たそうとすることは、それこそ雲をつかむような話である。あるいは実現した際の効用が定かでない欲望について、「それが実現しなくてもよい理由」を探すことも、あの世の沙汰にケチをつけるようなものだ。

ところが往々にして、私たちの欲望はそのように正体のわからないものであって、たまたま近所に住んでいる家庭との比較であったり、毎日目にする駅のポスターであったり、そういう偶発的な事象によって内実を欠いたまま規定されていることがしばしばである。

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ところでフロイトは神経症患者の治療において、抑圧されていた欲望を自然なかたちで患者自身の意識へと上らせることが、症状の緩和に欠かせないことを発見したのだった。欲望が実現されなくとも、それがともかく自分のうちに存在しているのだと認めることで、心に滞っていたものが流れはじめるわけである。

そうであるなら、その抑圧が症状として表出していない場合にも、当の欲望が一体何であるのかを知ることには意味があるはずだ。自分の向かうべき方向を認識することで、そこへと足を踏み出していけるかもしれないし、あるいは「なぜこんなもののために……」と、すっかりツキモノがとれてしまうこともあるかもしれない。

私は先日、限定発売されるスポーツカーの抽選に妻に黙って申し込んでみた。倍率も高かったし、それが現実に手に入る可能性についてはあまり考えていなかった。自分がそれに乗っているイメージも、想像しないようにしていた。

発表日、開封したメールの「残念ながら」という文字を目にしたとき、私は自分が思いのほかショックを受けていることに気がついた。てっきり妻と余計な諍いをせずに済む安堵の方が勝ると思っていたが、なにやらスポーツカーを運転する感覚が、身体に直接よみがえってきて、自身が失った可能性の大きさを追認させてくるのである。

しかし不思議と、悪い気はしていなかった。私はスポーツカーに乗りたかったのだ。そのあまりに自明な発見に、私の心は奇妙に晴れやかだった。

誰もが抑圧の城に住んでいて、それぞれがそれぞれに編み出した方法で、その城壁を必死に塗り固めている。それはそれでいいし、多くの場合、それはそのようでなくてはならない。ただ、たまに外を覗いてみるのも大切なことだ。外に出るのではなくとも、外に出られる可能性を垣間見るだけで、城には新鮮な風が入り込んでくる。人間が生きているのは、徹頭徹尾可能性の世界だからである。

そういうわけで、私は今後、同じような機会があればまた抽選に申し込んでみようと思う。今度は妻に告げたうえでそうするつもりだが、もしかするとその結果、外を覗く窓すら塞がれてしまうかもしれない。

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