抑圧にサビつく魂

このような現状肯定のバイアスがなければ、私たちは自分自身の生を基礎づけることができない。むしろ私くらいの歳になると、濾過された欲望の方が本当のように思えてくるのであって、自身が長い時間をかけて構築した持続可能な欲望の体系によって、魂の形状そのものが規定されているとすら感じる。安定した欲望の体系は、魂が安住できる城である。

しかし、欲望と満足のシステムを頑なに守った結果、魂をサビつかせてしまうのも考えものだ。欲望の抑圧状況を受け入れるための欺瞞、それを生み出すことばかりに腐心していれば、そのうち城にも雨漏りが生じてくるだろう。ジメジメした城内で魂はみるみる陰気になっていき、腐食していく我が身から目を背けているうちに、気づけば朽ちるのを待つばかりになっている……。

広告

私自身も、そのうち自分がそういう魂の持ち主になってしまうように思えておそろしい。今、私は家を探しはじめているのだが、この作業は大変に気が滅入る。限られた予算のなかで、駅やスーパー、病院や小学校等々へのアクセスやら、間取りやら周辺環境やら災害リスクやらを考慮しなければならず、当然しばしば「あっちを立てれば……」という状況に陥る。そのうち少しずつ、切り捨てざるをえない要素が浮き彫りになっていき、そのたび「それを諦めてもいい理由」を見つけなければならない。なんと抑圧的なのだろう。そのようにして選んだ住宅は、ほとんど抑圧の城ではないか?

さらにおそろしいことに、私は「予算をあと500万円上乗せできれば」などと考えてしまっている。これは、よくない。キリがない。たとえば何かの拍子に500万円が手に入り、期待以上の住まいを手に入れたとして、いずれ「もう少し○○なら……」と思うことは知れている。

欲望の範囲を限定すればするほど、視野は狭まり価値観は画一的になっていく。同じ分譲住宅にあって隣の庭が少し広いことを妬み、街で自分と同じ車を見つけるたびにグレードの高低に気を揉み、友人のiPhoneが自分のものより1つ新しいモデルであることを羨み……しかしそれを手に入れたからといって、一体なんだというのだろう?

抑圧の城は、抑圧の王国のなかにしかないのであって、そこでは小さな反実仮想が際限なく続いていく。どれだけ高い家を買おうと、いいモノを持とうと、その領土のなかに留まっているかぎり、「もう少し」の亡霊から自由になることはできない。その亡霊の正体は、対象の定かでない欲望である。具体性を欠いたまま抑圧された欲望は、満たされない思いそのものとして心の奥に常駐し、ことあるごとに曖昧模糊とした幸福のイメージを引き連れ回帰してくる。

次ページ
「古びた城に新しい風を取り込むために」

広告

※本記事はプロモーションを含む場合があります。

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事