ビールはたぶん毎日飲んでもうまい
上の話は単純に「嫉妬」と捉えてもらって差し支えないわけだが、こういうネガティブな感情にも大切な作用がある。
私たちは上に見たような抑圧や合理化を通じ、欲望の範囲を制限することで、安定的に快を得られるシステムを構築していく。たとえば「ビールはたまに飲むからこそうまい」といった合理化は、当然毎日ビールを飲める環境を視界の外に置くことで成立しているわけだが、この「見ないフリ」はいわば、置かれた環境のなかで最大限の喜びや快を引き出すための長期戦略なのである。
抱いてはいけない欲望をどのように押し殺すか、その正当化の回路を設えることで、その人の心には少なからず捻れや歪みが生じてくる。ただ、それはその人の「心の醜い部分」を形成するのと同時に、現状を受け入れるための心理的なホメオスタシスとしても機能する。このように考え、このように行動していれば、まだしもこのくらいの満足は得られるのだから……そういうやり繰りを、私たちは無意識におこなっている。
すなわちあのとき私の息子は、彼なりに欲望と満足の体系を持続可能なものにするために、大型のおもちゃに目を向けずにいたのだろう。おとなしく小さなトミカをねだっていれば、ちょくちょく手に入れられるのだから……そういう欲望と満足の安定したシステムが、彼のうちに形成されていたのである。ここで、そのシステムに大型のおもちゃがいたずらに侵入してくれば、せっかくの満足供給システムにヒビが入ってしまう。それは一時的に大きな快をもたらすかもしれないが、それ以上に現状のシステムが破壊されることへの不安が上回ってしまうのだ。
私たちにあっても、「これでいいのだ」と思っているところに、法外な快をもたらす何かがやってくると、かえって困惑し、不安になってしまうものである。私がスポーツカーを買わなかったのもそうだ。私はそれまで、現状の車で満足できるよう、「やっぱりディーゼルはトルクがすごいな」とか「シートが疲れにくくていいわ」とか、何年もかけて満足できる部分を見つけてきた。いまさら、未知の快に手を出すよりも、「計算できる今」を繰り延べていく方を優先してしまう。