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「バイオリンではなくトミカ」を正当化すること

最近、私の子どもはテレビに流れるオーケストラの映像を見て以来、やたらとバイオリンを弾くマネをするようになった。「これやりたい」と言うのだけれども、賃貸物件に住むわが家にそんな余裕はなく、しばらくして関心が他に移ることを待つよりほかなかった。

極端な話だが、もしかするとわが子にはバイオリンの才能が秘められているのかもしれず、興味をもった段階ですぐにバイオリンを買い与え、講師をつけてやることができたなら、世界的なバイオリニストになる未来があったかもしれない。あるいは天才ではなくとも、幼い頃から発表会に出たり楽団に参加したりするなかで、社会的影響力の高い人物たちとのパイプを作れたかもしれない。

私たちは日々そのように可能性のさまざまを切り捨てながら生きていて、一方で資本やら人脈やらが豊富であるほど、他の人たちが歩めなかったパラレルワールドをいくつも経験しうるのだろう。しかしそのパラレルワールドを夢見ることは、可能性を逸したあとでは意味のないことであり、私たちいつも、そうして失われた夢の影がちらつく現在を肯定する術を見つけ出そうとしているし、実際にどうにか見つけ出したりでっち上げたりしながら生きている。

今の自分を肯定しようとする心の動きはひとつのエートスを形成し、その人がその人であることと切り離せないものになっていく。喪失した可能性に対する折りあいのつけ方は、他の誰によっても否定されてはならない、人の尊厳そのものに関わっている。

たとえばもし、私たち家族の前に神のような何かがやってきて、「君の失われた可能性を取り戻してやろう」と、バイオリンと防音室、優秀な講師をパッと出現させたとしたら、私はきっとブチ切れるだろう。バカにするな、冗談じゃない。この苦労が、おれたちなんだ。誰に奪われてなるものか。週末にイオンに行って、おもちゃ屋のショーケースからトミカをひとつ選び、回転寿司で大好きなうどんと唐揚げを頼む、これがおれたちだ。誰に奪われてなるものか。

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誰しも自身の置かれた立ち位置から、自身が生きることを根拠づけようとする

誰しも自身の置かれた立ち位置から、自身が生きることを根拠づけようとしている。その過程においては、大小数え切れないほどの自己欺瞞が生まれては隠蔽されている。しかし根拠づけようという絶望的な試みそのものは、独断によってはもちろん、啓蒙によっても無闇に否定されてよいものではない。その悪戦苦闘の軌跡はその人の生きた証にほかならないからである。

ある人が不条理に対して不満を抱えているとしても、必ずしもその人が現状を救う手立てを欲しているとは限らない。むしろ現状を変えられることに、著しい抵抗を覚える人もいるだろう。それはおそらく、不遇や不条理に見舞われながらどうにか見つけ出した自身の生の根拠を、蔑ろにされているように感じるからである。

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もちろん、上の私の話は「こじらせた」事例であって、これが親ガチャに言及する人たちの一般的な心性だと言うつもりは毛頭ない。親ガチャは「諦観」のカジュアルな表現である一方で、事実的に対処すべき問題の諸相を包含している言葉でもある。大局的な見方からは否定したけれども、そこにSOSが含まれているケースが存在することに疑いの余地はない。

そもそも不条理な格差などない方がいいに決まっているし、無責任な言葉で現状を追認することそのものが不条理な構造への加担を意味する、という側面もある。ただ私が言いたいのは、それが軽薄な言葉として表出していたとしても、ひとが種々の「ままならなさ」のうちにありながら自身の生を根拠づけようとする精神の働きに対しては、一定の敬意をもって耳を傾けるべきなのではないか、ということである。

ちなみに炊飯器だが、これを書いている最中に1万7千円のものを買った。はっきりと味は変わったが、息子の食べる量に変化は見られない。まぁ、ご飯がおいしくなりすぎると、炭水化物を摂取しすぎてしまうかもしれないし――このような合理化も、生存戦略の一類型である。

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