私はなぜ高い炊飯器を諦めたのか――「親ガチャ」の流行に見る諦観的態度の諸相について

Educational Loungeで2年にわたり連載した小説「像に溺れる」作者でフリーライターの鹿間羊市さんが、日常の体験をもとに様々なことを考察していく月間コラム。
今回は炊飯器購入に迷った経験から、「親ガチャ」をテーマに思考が展開します。

鹿間 羊市(しかま よういち)
東京都多摩市出身。凡庸なエリートとしての道を歩むなか、ニーチェとの出会いが躓きの石となり、高校留年・大学中退と道を踏み外す。ハイデガー、レヴィナスの思想に傾倒し、現在はフリーの執筆家として活動中。衝動や受動性をテーマに、規定しえない自我の葛藤を描く。自身のnoteでも創作活動を行っている。Educational Loungeにて連載小説「像に溺れる」公開中(2022年10月完結)

炊飯器を買うのにもう一月ほど迷っている。些末な問題のようだが、この選択によってこれから何年も米の味が変わってくると思うと、なかなか踏ん切りがつかない。家族もいるし、思い切って5万円くらいのものを買ってもいいのだが、実際の味を確かめられないのがもどかしいところだ。

わが家の炊飯器は妻が独身時代に使っていたものであり、型番を調べると15年前の製品である。当然性能は劣化し、毎日まずい飯を食べている。たまに米を切らしてパックご飯をチンすると、息子はいつもの倍ほどの量を食べ、私自身もそのうまさに驚愕する始末である。

つまりわが家においては、炊飯器の性能が子どもの栄養状態と密接に関わっているわけだ。当然これは炊飯器に限った話ではなくて、普段からいい食材を買い、毎日の調理にも創意工夫を凝らしていれば、息子はもっと理想的な栄養状態に近づけるのだろう。

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「親ガチャ」という言葉が表すこの世の真理……?

そう考えはじめると、食事以外の面にも目が行きはじめてしまう。絵本やら知育玩具やらをどれだけ買ってやれるかもそうだし、保育園から帰ってきてからどれだけ遊びに付き合ってやれるか、休日にどこに連れて行ってやれるかもそうだ。日常的な営みの端々に、わが子の成長曲線の分岐点がある……半額のドーナツの粉砂糖をたらふく口につけたわが子の笑顔に、うっすら負い目を感じたりもする。

どうしても頭に浮かんでしまうのは、「親ガチャ」という言葉である。逆立ちしたって私はSR(※注)の親ではありえず、成長とともにわが子はそれを察していくのだろう。せめてコモンでありたいところだが、インボイスやらChatGPTやら、フリーライターの先行きは暗そうだ。

(注)SRの親
ガチャの世界で等級(希少性)を表す。ノーマル(N)/コモン(C)、レア(R)、スーパーレア(SR)、ダブルスーパーレア(SSR)、ウルトラレア(UR)の順に希少性が高まる。

このようにネガティブ思考に引きずられてしまうのは、私がSNSやマスコミに毒されているだけのことなのだろうか。それとも親ガチャという言葉は、「この世の真理」を言い当てているのだろうか。しかしそれにしても、一体どうしてこの言葉に言及する人が絶えないのだろう。

「子が親の影響を受ける」のは当たり前だが……

そもそも、子が生育過程にあって親から決定的な影響を受けるというのは当たり前の話である。蛙の子は蛙、というように、親の経済状況や社会的影響力、あるいは気質や文化的趣向等々が、子どもの成長のあり方を決定づけるという観点は、古くから共通了解として存在していたはずだ。

しかし一方で、学問のなかでこうした「人間を規定する構造的要因」に対する視線が先鋭化していったのは、19世紀後半から20世紀前後にかけてのことである。それはちょうど、国民国家や資本主義といった近代的枠組みが、産業革命とともにヨーロッパに浸透していくのと軌を一にしている。ヴェーバーの社会学やマルクスの史的唯物論に見られる手つきからは、法治主義にもとづく官僚制や、工場制機械工業をはじめとする「システム」が、社会形成における支配的なモメントとなるにつれて、人間の規定要因としての「構造」に対する批判的視座が醸成されていったことが窺える。

こうした「所与の構築物に対する解体的な視線」は、構造主義や現象学にも共通するものであり、その後のフランス現代思想と呼ばれる潮流にも決定的な影響を及ぼしていく。デリダの脱構築やフーコーの考古学的手法に代表される方法論は、差別や格差といったアクチュアルな場面に転用され、既存の制度やシステムを批判的に論じる際の観点として定着していった。「親ガチャ」に関連する領域では、ブルデューの功績がよく知られており、彼は「文化資本」という言葉を通じて、先行世代の有する資産や権力が、後続世代の資本獲得能力にまで影響を及ぼすことを明らかにした。

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ある層の人たちが自明のものとして享受している自由や権利は、また別の人たちにとっては当たり前のものではなく、そのような意識されない格差によって、恩恵に与れない人々は可能性を著しく制限されている――このような図式は、現状の支配的な価値観や社会制度に伏在している構造的な歪みを浮き彫りにする際のテンプレートとして流通し、SNSが普及した現在ではかなりカジュアルにこの手の批判がおこなわれている。「親ガチャ」という言葉の流行も、一面においてはこうした流れの一環として位置づけられるかもしれない。

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