私の宿命を形づくる「神の御業」のようなもの
このように、ハイデガーが「居場所」というのは、どこか地理的な一点を指しているわけではなくて、私のうちで作用するさまざまなメカニズムであり、あるいはそれが集積する作業現場のようなところである。これらメカニズムのうちもっともラジカルな部分、核心的な部分が、エートスだというのである。
これらのメカニズムは、いつも外の世界に対して開かれていて、何らかの刺激に対して機構に応じた「お決まりの」反応をする。ゼリーを食べたいとグズる子どもに対して、「ちめたいちめたいしよう」と優しく語りかけるメカニズムもあれば、ボソボソと「あぁ、もう、いま、それ、食べらんないから」と独り言のように呟くメカニズムもある。異なるシチュエーションであっても、それぞれのメカニズムは、それぞれの特性に応じた働きを見せるはずだ。つまり、彼は子どもが駄々をこねても毎度それなりに機転を利かせ、優しく言い聞かせるのだろうし、私はただ工夫もなく、わが子が言うことを聞くよう同じ言葉を繰り返すのだろう。
このメカニズムをいつのまにか規定し、またメカニズムを通していつもつねに現れている「その人の本質」が、エートスなのである。それはそうそう変えることができない、性のようなものである。それはいつも私の知らないうちに、つまり私の意識を超えて構築されている(ふりかかっている)し、「コントロールしよう」という意図に先立って作用している(近さのうちにとどまる)。そのメカニズムは、当人の意思の届かぬところで、ほとんど「神の御業」のようなしかたで形成されて作用する。
私はこういう意味で、神を信じている。それはいつも私につきまとい、しかも私を超えたところから、私のありようを規定してくる。私のダイモーンは、ひどく陰気な顔をしているにちがいない。おのず、私のエートスもジメジメと暗いものになるわけである。
すなわち私が「生き方を間違えた」というのも、どこかで人生の選択を誤った、という話ではなくて、私が意図せず諸々の性格・性質を身につけ、そこから抜け出せずに生きていることの、「しかたのなさ」について話しているわけである。エートスは宿命的に形づくられるものであり、同時にそれはダイモーンとして宿命を授けるものでもある。
ダイモーンに授けられた宿命を自分の固有性として引き受ける
おそらく大切なのは、こういうエートスを、あるいはダイモーンに授けられた宿命を、自分の固有性として引き受けることなのだろう。ハイデガーの有名な「本来性」に関する議論は、べつに「他人に流されない生き方」を推奨しているわけではなくて、上のような宿命の「どうしようもなさ」のうちに「自分らしさ」を見つけましょう、という話なのだ。すなわち力点としては、スヌーピーの「配られたカードで勝負するしかない」というセリフと同じところにあるわけである。
残念ながら、私は30代後半にして、いまだに自分に配られたカードが何であるのかよくわかっていない。もし若い人がこれを読んでいるなら、自分の手札をしっかり見定めてほしいと思う。そうして、自分に取り憑くダイモーンの顔を正視しながら、ときには交渉してみたり、あるいは殴ったりしてもいいかもしれない。