お疲れ様でございます。日本史科の佐京です。
今日は近現代における演劇の歴史を見ていきましょう。
目次
明治期の演劇
さて、「明治」に元号がかわり、いわゆる「明治維新」が進行していくなかでもやはり民衆に親しまれていたのは歌舞伎でした。
歌舞伎:文明開化の新風俗を取り上げた河竹黙阿弥と明治中期の団菊左時代
しかし、そうした歌舞伎であっても、文明開化の新風俗を取り上げた河竹黙阿弥の作品が人気を博しました。
明治になってからの黙阿弥が得意としたのは散切物。
明治中期になると、9代目市川団十郎、5代目尾上菊五郎、初代市川左団次の名優がでて団菊左時代を現出しました。
壮士芝居がもとになった「新派劇」
こうした歌舞伎(=旧派)に対して、明治期の新しい演劇として起こったのが新派劇です。
そのおおもとは自由民権運動を広めるために川上音二郎が行った壮士芝居でした。
川上音二郎は「権理幸福嫌いな人に、自由湯をば飲ませたい」で始まるオッペケペー節で人気を博します。
そして政談演説が禁止されたため芸人となり、荘士芝居で政府を風刺して民権運動を啓蒙することとなったのです。
余談ですが、「演歌」ということばの「演」は「演説」の「演」であるという説もあります。
日清戦争前になると川上は、川上書生芝居の一座を旗揚げし、興業形態の近代化をはかって新派劇の基礎を確立しました。
▼自由民権運動についてはコチラ
西洋近代演劇の影響を受けた「新劇」
歌舞伎・新派劇はみてきたように「日本生まれ」の演劇ですが、これらに対して西洋近代演劇の影響を受けて翻訳・上演された演劇を新劇といいます。
ややこしいので、いったん整理しておきましょう。
- 歌舞伎 17世紀にはじまる演劇
- 新派劇 歌舞伎(=旧派)に対する明治期の新しい演劇
- 新劇 西洋近代劇を翻訳・上演する演劇
新劇では、坪内逍遥・島村抱月の文芸協会や2代目市川左団次と小山内薫による自由劇場がでます。
協会の柱と主演女優を一気に失うこととなった文芸協会は1913年に解散します。
自由劇場は文芸協会に送れること3年、無形劇場・反商業主義・自然主義の理念を掲げて1909年に結成されました。東京有楽座でイプセンの翻訳劇を上演し、1919年に解散するまで先駆的な演劇を続けます。
大正・昭和期の演劇
1913年、ある演劇団体が旗揚げされます。
島村抱月と松井須磨子による芸術座です。
文芸協会をあとにした島村と松井は、あらたにこの芸術座を旗揚げしたのでした。
ここには作曲家の中山晋平も参加します。
中山はトルストイの「復活」の劇中歌「カチューシャの唄」を作曲、これを松井が歌い好評を博します。
しかし、1918年、島村の急死(肺炎)とこのあとを追った松井の死で芸術座は解散します。
沢田正二郎による大衆演劇の劇団「新国劇」と浅草オペラ
芸術座が脱退する約1年前、ここを脱退した沢田正二郎は大衆演劇の劇団・新国劇をつくります。
また、同じころ、浅草で高木徳子(アメリカでダンサーをしていた)が「世界的バラエチー一座」を掲げて浅草オペラの動きが始まっていきます。
もちろんこの背景には大戦景気といわれる、第一次世界大戦を原因とする好景気もありました。
▼大戦景気についてはコチラ
しかし、そうした動きも1923年の関東大震災で一変します。
▼関東大震災についてはコチラ
関東大震災の翌年に設立された「築地小劇場」
その関東大震災の翌年、築地小劇場が設立されます。
自由劇場にいた小山内薫が中心となった団体で、ドイツ留学帰りの土方与志とともに「演劇の実験室」を掲げて多数の翻訳劇を上演します。
築地小劇場はその後、日本プロレタリア芸術連盟の傘下である前衛座などのプロレタリア演劇の拠点となっていきます。
今回は近代演劇史を概観しました!
次回は近代文化の最終回、近代音楽史をお届けします。
ではまた。