Educational Loungeで2年にわたり連載した小説「像に溺れる」作者でフリーライターの鹿間羊市さんが、日常の体験をもとに様々なことを考察していく月間コラム。
今回は思春期を過ごした多摩地区で経験した、「一人称」をめぐる物語を振り返ります。
東京都多摩市出身。凡庸なエリートとしての道を歩むなか、ニーチェとの出会いが躓きの石となり、高校留年・大学中退と道を踏み外す。ハイデガー、レヴィナスの思想に傾倒し、現在はフリーの執筆家として活動中。衝動や受動性をテーマに、規定しえない自我の葛藤を描く。自身のnoteでも創作活動を行っている。Educational Loungeにて連載小説「像に溺れる」公開中(2022年10月完結)
私の故郷は丘陵地を開発したニュータウンであり、なにしろ坂が多い。必然、高低差によって居住区は大まかに分断され、幼心にもなんとなく察することができるほど、エリアごとに住民の生活水準は異なっていた。
私の通っていた小学校は、分譲地の建売住宅やマンションが並ぶエリアにあって、いわゆる「中流」に位置づけられる家庭の子が多く集まっていたように思う。一方、坂の向こうの団地群に位置する小学校は治安の悪さで有名であり、それを快く思わない大人たちの感情が伝播するかのように、私たちは「団地の子」に対してうっすらとアレルギーめいた恐怖感を抱いていたのだった。
実際のところ、坂の向こうの小学校と学区が統合される中学校は荒れ果てていて、それを避けるために私立中学校を受験させる親も少なくなかった。私自身もそのような受験組であったが、みごとに受験は失敗し、当の中学校に進むことになった。
そこでは案の定、喫煙に飲酒、深夜徘徊による補導はもちろん、集団万引きや教師への暴行、校舎破壊なども頻発していた。とはいえクラス内部の棲み分けはできていて、いわゆる「不良生徒」たちが他の生徒に手を出すことはなく、思いのほか平穏に過ごしていたものである。
そういう事件を引き起こすのは、団地の子であったり、そうでなかったりした。団地の子がそれを起こせば「やっぱり」であり、そうでなければ「団地の子に悪い影響を受けたのだ」と言われるわけなので、そのあたりの因果関係についてここで言及するつもりはない。
ただ、なんとなく覚えているのは、坂の向こうの小学校から来た同級生たちのうち、一部の女子たちが「あーし」という一人称を使っていたことである。彼女らの多くは団地の子であって、男子の不良生徒たちと同じように、喫煙や飲酒、深夜徘徊等々によってしばしば補導、謹慎処分を受けていた。
「あーし」という一人称は今でこそ、マンガやアニメにおいて「陽気なギャルキャラ」という属性の演出として用いられているが、当時はもっと剣呑な響きをもつ一人称だったように思う。要するにギャルというよりも、ヤンキーや不良にカテゴライズされる者たちがそれを使っていたのである。
「あーし」との小さな接点から
自他ともに認めるガリ勉であった私は、当然のごとく彼女らと接点をもつことはなく、煙の匂いをまとった彼女らに慄きつつも、その存在を自身の意識に上らせないよう苦心していた。単純に、怖かったのである。彼女らは私とはまったく異なる世界の住人で、ひとたび彼女らの領分に足を踏み入れてしまえば、こちらの珍妙な作法が嘲笑の対象になるにちがいないと、私は知らず決めつけていたのだった。
それが誤った思い込みに過ぎないと気づいたのは、私が高校に入り、地元のガソリンスタンドでアルバイトを始めてからである。そこには例の、自身を「あーし」と呼ぶ同級生がいて、しかも彼女は「あーし」たちのリーダー格だった。彼女はもはや「あーし」というより「ア゛ァシ」といって、低くくぐもった発音で自身を呼んだ。そのドスの利かせ具合によって、ヤンキーとしての格が決定づけられるかのようだった。
バイト先に彼女の姿を見つけたとき、私はもちろん戦慄した。彼女と同じクラスになったことはないが、彼女の名は全校に轟いていたし、何より屈辱的な思い出もあった。放課後、委員会活動で部活への参加が遅れ、誰もいない教室でそそくさと着替えていたところに、彼女のグループが入ってきたのだ。ちょうどパンツ一枚になっていた私の惨めな姿を見て、彼女は爆笑しながら仲間を引き連れ教室を後にした。人と積極的に交わろうとしなかった当時の私にとって、当然それは嘲りにしか映らなかったわけである。
しかしそれは「ヤンキーは人を見下そうとする生き物だ」という私の誤った偏見に根ざした曲解だったのだと思う。彼女は単純に、遭遇した状況の意外性に笑っていただけなのだ。ガソリンスタンドで働くなかで、彼女は私のミスを笑うこともなかったし、責め立てることもなかった。休憩室では常時タバコを吸いながら、あまり興味がなさそうに、しかし私にちょくちょく質問を投げかけてきた。間を持たせようというわけでもなく、ただ単純に、目の前に居合わせた人間とコミュニケーションを取ることが自然なことだからそうしている、という様子だった。彼女自身、言葉が多い方ではなかったが、それでも「あー」とか「ははっ」とか、いつも小さく相槌を打つ。なんというか、互いの波長を合わせる必要もなく、「そういうもの」として成り立つ関係は心地よく感じられた。
シンプルに、彼女はフラットだった。格とか生きる世界とか、そういうことに囚われているのは私の方だったのである。唯一彼女らが創作物の「非実在ギャル」と共通しているのは、おそらくこういう、あらゆる人間に対する「ノーガード」なスタンスなのだと思う。
わずかな事例をもとに、一人称が「あーし」の女子が、人と分け隔てなく接するものだというのは、それこそ偏見かもしれない。しかしどうにも私には、そこに必然的な連関があるように思えてならない。つまり、一人称と、他者に接する際のスタンスは、きわめて密接に関係しているように思えるのだ。