[第2章]写実主義と文学論――日本近現代文学作品詳説

逍遥四迷と鷗外との「想実論」の相違

いわゆる写実主義を主義として定着させたのは坪内逍遥である。彼は『小説神髄』(明治一八~一九年)において、進化論的視点からジャンルの盛衰を述べて、
模写(写実)小説こそ最も進歩したあるべき美術(芸術)としての文学の姿であると結論する。そこで模写すべきは、「人情」であり「世態風俗」であるとする。
このような主張は戯作改良の意図に支えられたものであった。戯作を婦女子の玩弄物から「大人」の鑑賞に耐える「美術」にするために逍遥が主張したことは、戯作のもつ勧善懲悪を否定することであった。それはすなわち作者の倫理観で作中人物を機関(あやつり)人形にしてはいけない。心理学を応用し内面をもつ人間を模写しなくてはいけないという主張であった。

逍遥四迷の「想実論」

戯作において「勧善懲悪」は一方では作品を教訓的な寓話にし、一方では情痴や悪の世界を描く隠れ蓑になっていた。ゆえに逍遥は「勧善懲悪」が戯作を「美術」から遠ざける一大要因であると考え、これを否定したのである。形式的な「勧善懲悪」を否定することはあるいは当然のことであったのかも知れない。しかし問題はそれが思想性そのものを不要とし有害とする議論になってしまったことであった。そのことによって逍遥は写実の根拠を失い、作品を構成する原理を失ってしまった。そのことは、『当世書生気質』(明治一八~一九年)において、作品全体を構成するモメントをもたず、戯作の筋立てを借りてこなくてはならなかったことが証明している。
その理論的欠陥を突くかたちで提出されたのが、二葉亭四迷の『小説総論』(明治一九年)であった。彼はそこで
「小説は浮世に形(あら)はれし種々雑多の現象(形(フホム))の中にて其自然の情態(意(アイデア))を直接に感得するものなれば、其感得を人に伝へんにも直接ならでは叶はず」といい、模写を「実相を仮りて虚相を写し出す」とする。
そこに思想の復権があった。

しかし、四迷の考えは、その実践である『浮雲』(明治二十年~二十二年)の中絶とともに長く実現から遠のくのであった、ただそれは「想-実」の問題として、明治二〇年代の批評家(内田魯庵・石橋忍月)に引き継がれ、批評原理になった。

逍遥、鷗外の『没理想論争』

さて、その一方で逍遥の「模写論」に影響を受けた硯友社の作家たちによる「人情世態小説」があった。彼らは西鶴の影響もうけつつ、人情(=恋愛の人情)と目新しい風俗を描き続けた。彼らは作品の原理を新聞などの雑報から得たストーリーに求め、思想は世俗の半歩前に進んだ程度の良識に求めた。そのため、彼らの写実は皮相なものにならざるを得なかった。

それに対して石橋忍月は『想実論』(明治二三年)で
「詩発生の源を、想・実の二つとし、想は虚象、実は真景であり、『内に虚象を設けて文字之を実にし、外に真景を採りて又之を虚象に帰する』想・実の調和こそ詩を永遠不朽にするものだ」と説いた。また、人物は想、人事は実より出、詩は人物を主、人事を従とすべきだとし、趣向・人事ばかりを重視する同時代の硯友社風の文学風潮を批判している。

ここでの論点をめぐる象徴的な論争が『没理想論争』であり、ここから後の「浪漫主義」台頭の契機となる。この論争は、坪内逍遥と森鴎外の間で、明治二四~二五年の間に闘われた明治最大の文学論争である。
逍遥が『シェークスピア脚本評註』の「緒言」(二四年一〇月「早稲田文学」)で、想実を重視する客観主義を主張したのに対して、鷗外が『早稲田文学の没理想』(二四年一二月「しがらみ草紙」)において、芸術家は、実(レアル)だけではなく想(イデエ)を感じて制作する理想が必要だと反論し、その後半年間の応酬が続いた。
だが、ハルトマン哲学をふまえた鷗外の「理想は無意識より来る」とする論理の観念性と、逍遥の客観主義の思想性の弱さが災いして論争はすれ違いに終わった。しかし、批評における主体の問題を提起したこと、逍遥・四迷のリアリズムに反省を促し、浪漫主義台頭の契機をもたらしたこと、文学の方法意識の確立に貢献したことなど文学理論史に絶大な役割を果たした。

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